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手塚治虫が亡くなって、もう11年経つ。
没後、父親に対する考え方が変わりましたか? と、時おり尋ねられるのだが、
正直、まったく変わっていない。
このごろは漫画の哲学だの思想だのといわれるが、
そんなものはとっくに超えて表現できているからこそすばらしく面白かったのであり、
だから大衆に訴えたのであり、人々の心に大きな軌跡を残したのである。
(そんなことは自分が子供のころから分かっている)
ストーリー漫画のパイオニアである、といわれる。
たしかに日本の漫画に映画のような劇的表現を持ち込み、キャラクターに明確な物語を語らせた。
しかし物語というものはそもそも人間の歴史にずっと携わってきた文化であり、
決して手塚治虫はそれ以外の新たな方法論を提示したわけではない。
そこに展開される生命哲学のような思想はスタンダードであり、
仮に手塚治虫が表現し得なかったとしても、多くの賢者や表現者から洗練されて語られていることだ。
ひとつ例にとると宇宙が生命体であるといったコスモロジーは、
『火の鳥』以前に様々な思想家、SF作家や辺境の科学者から案内され続けた主題である。
たしかに日本における先見性という点では抜きん出ているが、
真に手塚治虫ならではの新しい論理思想がその作品中にどれほど見つけられるか、
ではいったい、手塚治虫の生み出したものは何であったのか。
科学と人間との軋轢を露に示したことか。質のよい娯楽を作り続けた、ということなのか。
子供たちのために働き続けた、ということなのか。
もしくは日本における漫画やアニメーションの価値を向上させたということか。
そのすべてであって、しかしそれだけではない。
周り戻るようだが、僕は「漫画」そのものの「発見」と思う。
僕は人間が生み出した最も雄弁な表現媒体は残念なことに(といっては失礼だが)
いまだ絵画なのだと思う。
小説や映画はそれに準じているのだが、手塚治虫はそこに漫画を加えた。
手塚治虫はこの世界に数少なく、真に天才といってふさわしい人物である。
しかしダ・ヴィンチとは異なり、アインシュタインとも違う。
シェークスピアでもなければ、ビートルズでもない。
漫画という表現を発見し、開拓し、確立し、世俗のものとし、それを超え、
さらに未来へ向けて線を引いた。
それをたったひとりで成した人物を、歴史上でほかには知らない。
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