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小さなお猪口(ちょこ)の内側に塗られた、玉虫色に光る絵の具のようなもの。これは、江戸時代の女性たちが主に口紅として化粧に使っていた、伝統の「本紅(ほんべに)」です。紅(べに)なのに赤ではなく、玉虫色に見えますが、これは純度が高い赤の色素が光を吸収してしまい、反対色である緑色の輝きを放つから。不思議なことに、水を含ませた筆で溶くと、鮮やかな赤色に一瞬で変わります。
本紅は、紅花の花びらから赤の色素だけを抽出し、ていねいに精製されて作られます。もともと紅花に含まれている色素は、99パーセントが黄色です。わずか1パーセントの赤の色素を取り出すためには、驚くほどの手間と時間がかかります。「金一匁(もんめ)紅一匁」という言葉が今も伝えられているように、本紅はとても貴重で高価なものでした。それでも江戸の女性たちは、その美しい色に魅せられ、競って本紅を買い求めたのです。
明治時代になり、海外からさまざまな合成染料が輸入されるようになったのをきっかけに、江戸の紅の文化はすっかり衰えてしまいました。江戸や京にたくさんあった紅屋も次々と姿を消し、今では日本に一軒だけしか残っていません。江戸の町人文化が爛熟(らんじゅく)期を迎えた文政の頃、1825年に創業した「伊勢半本店」です。
当時から、本紅はお猪口の内側に塗りつけられ、乾いた状態で売られていました。本紅は光に弱いため、使わない時は光が入らないように伏せておかなければならなかったのです。小野小町のように美人になる紅、という意味をこめて「小町紅」と呼ばれていました。伊勢半本店の小町紅は、特に品質が良く、他の店のものより玉虫色が濃かったと言われています。
紅屋にはそれぞれ、その店独自の本紅の製法があり、秘伝として守っていました。伊勢半本店も同じように独自の「小町紅」の製法を持ち、創業から180年以上たった今も変わらない製法で本紅を作っています。