青年海外協力隊体験談
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土橋 喜人さん

フィジーの村での3年間の経験を生かし国際協力のあるべき形を追求し続ける土橋さん

村落開発普及員(フィジー) 土橋喜人さん

 現在、国際協力銀行で開発途上国への支援業務に携わる土橋喜人さんは、1996年から3年間、青年海外協力隊の村落開発普及員として、南太平洋のフィジー共和国(現:フィジー諸島共和国)で活動した。現地で暮らす人の気持ちに懸命に寄り添うことで見えた、自分なりの国際協力の形。より大きなフィールドに立つ今も、この地での自らの経験を問い直し続けることで国際協力のあるべき姿を追求し続けている。


長年の夢である国際協力へのステップとして青年海外協力隊へ参加

 私は中学生の頃から将来は国際協力や開発援助に携わりたいと強く思っていましたので、そのステップとして青年海外協力隊に参加することは、私の長年の夢でした。ところが、実際の人生は国際協力という方向にまっすぐに進んだわけではありませんでした。というのも、大学生になって卒業後の進路を考えた際、協力隊に参加するにもバックグラウンドが必要であること、かといって自分の土台ができていないうちにJICAや国連のような機関に就職できたとしても責任を果たす自信が持てないことに気づいたからです。そこで、まずは世の中を知り、十分な社会経験を積んだ上で、改めて自分に問いただす方がよいのではないかと考え、広い社会や多くの人と直接関わることのできる都市銀行に入行、個人や法人の営業をがむしゃらにやりました。猪突猛進の営業スタイルではありましたが、幸い何度か表彰されるなど結果も出すことができ、上司や同僚にも恵まれ、それなりに充実した日々を送っていました。

 そんなある日のこと、電車に乗っていると、ある車内広告が目に飛び込んできました。それは、青年海外協力隊の募集広告でした。「俺を呼んでいる!」。見た瞬間、そう思ってしまったのです。十分とは言えないまでも5年もの間、精一杯仕事に打ち込んできた自負はありましたし、「人生を大きく動かそうと思ったら二十代の今しかない」と感じ、一念発起して応募してみたところ、幸いにも合格することができたのです。

 上司や同僚の反応ですか? 寂しいことに、誰も全く止めてくれませんでした(笑)。後で聞くと、「土橋は今は一生懸命仕事しているけれど、それが必ずしも彼の幸せにつながっているようにはみえない」「土橋が決心したら止めても仕方がない」と思ってくれていたようです。ただ、人事からは「本当にそれでいいのか。27歳の思いだけで行動するのは早計なのでは」と説得を受けましたけれど、決心は揺るぎませんでした。

村人の意識を変えたトラック1台分の堆肥の山

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 私の派遣国はフィジーに決まりました。実は派遣国には全くこだわりはなく、銀行時代の営業と同じで(笑)、必要とされる場所で愚直に責任を果たすことしか頭にありませんでしたので、どの国でも喜んで行くつもりでした。職種は、村落開発普及員。これは、とても幅広い職種で、デスクワークや研究職、大学の先生といった仕事から、井戸堀りや魚釣りといった仕事まであります。そのなかで、私のミッションは「村に入って人々の生活状況や政治・経済・社会情報/状況を把握するとともにそのニーズを発掘し、自分自身でプロジェクトの形成、実施を行い、村の生活改善に寄与すること」。無理難題と言えば、無理難題。考えようによっては自由ともいえる課題でした。

 しかし、いざ仕事を始めようと思っても、何から手をつけたらいいのか全くわからず、最初の1年は途方に暮れるだけの“ゴクつぶし”の日々でした。というのも、フィジーは海の幸、山の幸ともに豊富で気候は温暖、飢えにも寒さにも無縁の国でしたし、村の人々も皆幸せで健康そうに見え、彼らの“ニーズ”がどこにあるのか計りかねたのです。

 生活そのものを豊かにするのは、物質的なものとは限らない。彼らとの生活の中でそう考えるようになって、ふと思いついたのは、食生活を彩るということ。村の人たちは食べ物への関心が高い割にはめんどくさがりやさんであることがわかってきた矢先でもありました。そこで、村で育てる野菜の種類を増やしてみる提案にでもつながればと、バスで3〜4時間先にある町から堆肥となるサトウキビの搾りカスをトラック1台分運び込み、村の入り口に置いてみることにしました。あえて配ったり告知したりしなかったのは、あくまでも村の人たちの自発性を大事にしたいと考えたからです。

 それからしばらくの間、堆肥の山から何が起きるのか待ってみると、村の女性グループが「あれを使って野菜作りをしてみてもいい?」と言ってきてくれたのです。プチトマト、きゅうり、チンゲン菜……。新しい野菜作りが一つの村で始まると、次々と他の村へも波及していきました。女性たちが新しい試みを始めると男性たちからも「何かしてみたい」という声が出始め、そうした意識の変化が青年団、学校へと様々な広がりを見せていったのです。私が急に忙しくなったのはそこからです。堆肥の山をきっかけに、次々といろいろな声がかかるようになりました。そこで、通常2年間の派遣を1年延長することを決意。この時になってやっと、“ゴクつぶし”だった1年間も、準備期間としては必要だったと自分で自分を慰めることができる心境になりました(笑)。

国際協力の可能性はコミュニケーションの中にある

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 その後、残念ながら現地で交通事故に遭ったため、任期途中で帰国を余儀なくされたのですが、フィジーでの3年間で本当に素晴らしい経験をすることができたと感謝しています。なかでも、ホームステイ先の家族が私の滞在中に生まれた赤ちゃんに「ラトゥエレマシ・トゥレブ・ヨシトドバシ」と私の名前をフルネームで付けてくれたことは、自分が家族として認めてもらえたようで本当にうれしかったですね。また、大好きなラグビーを通じた“国際交流”も忘れられない思い出です。フィジーはラグビーのさかんな国で、ペットボトルでもラグビーをするお国柄。そこで、大学時代に所属していたラグビー部のOB会を通じてラグビー用品を村の青年団にプレゼントしたのです。その時に村の青年たちが見せてくれた輝くばかりの笑顔は今でも目に焼き付いています。

 このように楽しい思い出は数えきれませんが、私がフィジーでの活動から得た一番の財産は、自分なりに国際協力のあり方を考え抜くことができた経験だと思っています。それは一言で言うと、「相手国の人々の意志を尊重しながらも、自分の信じることは誠実に伝えていくということ」に尽きます。国際協力という場においては、協力する側の人間ができることは情報やきっかけを提供することになります。その際、協力する側があまりに考え過ぎて及び腰になるばかりでは状況を変えるきっかけを与えることはできません。どのようにしようとも、最終的な取捨選択はそこで暮らす人々が自らの意志で行うことになります。ですので、自分の考えることを相手に伝え、コミュニケーションをとることが重要なのです。国際協力をする側、受ける側がお互いの意志を共有し、自分たちの信じることをやっていく。そのコミュニケーションの中にこそ、国際協力の可能性がある。フィジーでの活動で、私はそう実感することができたのです。

 帰国後の私は、JETROアジア経済研究所開発スクールでの研修生を経て、マンチェスター大学IDPMでの修士課程を修了後、現在の国際協力銀行に入行と、引き続き国際協力と深く関わり、そのあるべき姿を考え続ける日々を送っています。もちろん、その核になっているのが、フィジーでの経験であることは言うまでもありません。今後とも、現在の業務を通じて国際協力を考えていくという課題に取り組んでいく予定ですが、これからも青年海外協力隊での経験を自分の中で問い直す作業を続けていくことで、より意義のある国際協力のあり方を模索していきたいと考えています。

【タイトル画像について】
現地では伝統文化が重んじられており、村に入る際には、セブセブと呼ばれる儀式をする必要があります。現地で広く飲まれているカバ酒(アルコール度0%)の原料となるコショウ科の植物の根の部分を献上物として村の長に差し出すのです。その際に述べる口上も覚えました。写真はセブセブの儀式で口上を述べているところです。

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