「住宅の質」に着目した住まい選びのポイントを環境・構造・設計・設備・内装仕上と住宅が完成するまでの流れに沿ってご紹介します。
「住まいとは何か」などと考えていたら夢を見ました。
たまたま我が家の居間のテレビが壊れ、自室でパソコンテレビなどを見て気を紛らせていた矢先のことです。
「娘が観たいテレビがあるけど自室のテレビが壊れたので居間で観るしかないと言いました。居間では父親が友人に録画を頼まれたけどこれでいいのかと娘に聞いていました。なんとなく放送が始まるまでの間、家族の会話が弾み、私も一緒に観たくなって急いで食事の後片付けをし、後でテレビを観ながら林檎でも剥こうかしら・・・」などと考えていたら夢から覚めました。
これは私の原風景でもあります。昔は、台所の板の間で家族みんなで食事を取り、その後茶の間に移動して、季節の果物やお菓子などを食べました。家族みんな寝るまでそこに居たように思います。現在、我が家ではそういった風景は夢でしか見られなくなりました。
結婚当時の私は、夫婦別々の部屋を持つという「個室群住居」に憧れ、そして実践しました。子供ができても子供も早くから自立させようと考えていました。当時の覚書にもこう記してあります。
こうして私の子育ては始まりました。そして今、誰も居なくなったリビングに壊れたテレビだけが残りました。
どうしてこんなことになったのか考えてみました。
まず、私たち夫婦は「個室群住居」の本当の意味を良く理解していませんでした。「個室群住居」は家族ひとりひとりが社会的に自立した存在であるという前提のもとに成り立っています。子供に早い段階でそれを押し付けたのは間違いでした。また個室はあっても積極的に家族が交流し合えるリビングがなかったこと。黒沢隆氏は「個室群住居」の構成要素を「ダイニング+個室」と位置づけましたが、私はリビングだと思います。ただ食事をするだけのダイニングではなく、食後の語らいにこそ家族の交流が図られると思うからです。
家族のかたちは変化します。初めは夫婦二人の時期、そして子育て期、子供の自立期、子供が巣立つ時期、そしてまた夫婦二人だけの老後・・・
「僕はなぜ たったひとりでここにゐる?そしておまえはどこで 僕をまってゐる!僕のなかで大きくなって来るおまえ――僕は おまえにこの青い葡萄を食べさせたいとおもふ そして丘の麓のあの小家へかえれば おまえが出て来るのではないか とおもふ うそだ みんなちがう おまえはずっととおくにゐる・・・・・」(立原道造「盛岡ノート」より)
これは24歳でこの世を去った詩人であり建築家でもあった立原道造が亡くなる一年程前に恋人水戸部アサイに宛てて綴ったものです。そして立原は水戸部アサイと出会う直前に、自らのための週末住宅「ヒアシンスハウス」を設計しています。
「僕は、窓がひとつ欲しい。 あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。」(草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」より)
「ヒアシンスハウス」は立原の早すぎる死により実現されることはありませんでしたが、わずか5坪ほどのワンルームの小家にその後出会った彼女との生活を夢見たのではないでしょうか。そこには台所もお風呂もなく、おそらく余命幾ばくもないことを察した彼が、ただ恋人と時を共に過ごすことを望んだ空間ではなかったかと思います。
「ヒアシンスハウス」には家の原型を見る思いがします。家とは家族が寄り添いながら集まるところではないでしょうか。シェルターとして人が生活していく上での快適さも必要ですが、精神的な快適さがあれば自然に家族が寄り集まる空間が創れると思います。
家族に対する信頼をもとに、家族の他者性をぎりぎりのところまで拡張することで、家族本来の親和性を浮き彫りにしようとした黒沢隆氏の「個室群住居」という考え方は、まさに住まいに精神的な快適性を求める家族のかたちとも言えるでしょう。
そして、今私は壊れたテレビだけが残る我が家の居間で、いつかここが家族の自然に集まる場所となるように「心地よい住まい」について考えていきたいと思います。
小杉寧子(コスギ ヤスコ) 一級建築士