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お役立ちコラム

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「住宅の質」に着目した住まい選びのポイントを環境・構造・設計・設備・内装仕上と住宅が完成するまでの流れに沿ってご紹介します。

第7回「Quality of Life-小さな家の住まい考4 立原道造のヒアシンス・ハウス」

「僕は窓がひとつ欲しい。あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んでいてはいけない。窓台は大きいほうがいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははっきりした輪郭がいくらか空の青に溶け込んでゐる。僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと眠つてゐる。夕ぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。…….」 (草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」から 立原道造1938年秋頃執筆)

24歳で早逝した詩人、立原道造は東京帝国大学建築学科を卒業し将来を嘱望された建築家でもありました。

「ぼくの半身は詩を考へ、もうひとつの半身は建築を夢見る」と語り、死の一年前に自らの週末住宅として別所沼湖畔にヒアシンス・ハウス(風信子荘)の建築を夢見ました。たった五坪の小住宅でしたが、ヒアシンス・ハウスという美しい言葉とともに丁寧に描かれたスケッチが今も残されています。(第1回Quality of Life参照)

ヒアシンス・ハウスは東西に細長く、東から西に向かって片流れの屋根がかかっていました。南側中央にある玄関を入ると東側は広がりのある空間にテーブルと椅子が置かれ、東南のコーナーには大きな光あふれる窓がありました。西側は閉ざされた空間でベッドの横には小さな窓、北側には分節された二つの空間をつなぐように水平に連続した窓が配置されていました。東南コーナーの窓はガラス戸と鎧戸が外壁側に引き込むように納められ、ガラス戸は直角に出会って出隅を形成し、外から柱は見えない仕掛けになっていました。しかも鎧戸は戸車で吊られているため、敷居にはガラス戸の溝が一本あるだけなのです。

このようにヒアシンス・ハウスは巧みに配置された窓によって、光の空間を構成した”光の小箱”でした。室内のスケッチには、本を並べた書棚、花柄のカーテンやリキュールの瓶、デザインされた椅子とテーブル、机の上にはスチールのロウソク立てが描かれていました。その室内は「住み心地良さ」は「住み良さ」を深層で支える気分情感だとする彼の考えを表現しているかのようです。

昭和初期、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、一種の芸術家村の様相をみせていました。大学の卒業設計で「芸術家コロニイ」を構想した立原は、自ら住まう週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだものと思われます。

「…..それから、「ヒアシンス・ハウス」といふ週末住宅をかんがへてゐます。これは、浦和の市外に建てるつもりで土地などもう交渉してゐて、これはきつとこの秋あたりには出来ているでせう。五坪ばかりの独身者の住居です。これも冬のあひだしよつちゆうかんがへ、おそらく五十通りくらゐの案をつくつてはすててしまひました。今やうやくひとつの案におちついてゐます。」 (1938年3月下旬頃 高尾亮一宛)

この書簡を送った頃、立原は婚約者水戸部アサイと知り合い、夏には肺尖カタルになり療養生活に入ります。立原は、この五坪ほどの住宅を「ヒアシンス・ハウス(風信子荘)」と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを画家深沢紅子氏に依頼し、住所を印刷した名刺を親しい友人に配ったりもしました。しかし立原が夢見たヒアシンス・ハウスは、別所沼畔に実現することはありませんでした。(注1)

「僕は やがて 自分の晩年をロマンのなかに悲しく描きはじめてしまふ。浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢、長崎に行つて 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へてゐる かなしいかげりのなかで花ひらくのだ。」 (1937年12月17日 小場晴夫宛)

ヒアシンス・ハウスは鎧戸や室内の椅子に十字架が刻まれ、家の外に翻る旗にも十字架が描かれていたといいます。すでに死を予感した立原がこの十字架によって別離の物語を示唆し、ヒアシンスという言葉に新たな旅立ちを託していたかのようです。十字架を透過する光は悲しく、旗はその悲しみを送るかのように思われます。

「百坪などいらないのですが あまりすくなくては貸してもらへないとおもひますので 百坪と申します 出来たら 五十坪ぐらゐでいいとおもふのですが 五十坪のなかへ 四坪半の小家?を建ててもまだ広すぎる位です」 (1938年2月12日 神保光太郎宛)

立原道造が夢見たヒアシンス・ハウス、ル・コルビュジェが妻に贈った「休暇小屋」(第6回Quality of Life参照)、これらに共通しているのはどちらも五坪に満たないワンルームであることや、台所や浴室がないことです。当時、ル・コルビュジェたちが提唱した最小限住宅は、低所得層の住宅をいかに向上させるかがテーマで、小さくても人間らしい暮らしのできる最小限の家をつくろうというものでした。「休暇小屋」はその究極のかたちであったと思われます。しかし、ヒアシンス・ハウスには窓に近代建築の手法がつかわれているものの、室内のスケッチからはそのようなテーマを感じることはありません。なぜ立原はヒアシンス・ハウスをつくろうとしたのか、それは“癒しの空間”をつくることではなかったでしょうか。そこに必要なのは、沼畔の景色と身の丈の空間と時間とともに変化する光と自分が大切にしている小物たち・・・

「僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと眠つてゐる。夕ぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。」

(注1)立原が「別所沼のほとりに建つヒアシンス・ハウス」を構想してから66年の時が過ぎた2003年別所沼公園が埼玉県からさいたま市に移管されたのを機に「詩人の夢の継承事業」としてヒアシンス・ハウスの建設の機運が高まり、2004年11月、多くの市民や企業、行政の協調のもとにヒアシンス・ハウスが竣工しました。

小杉寧子小杉寧子(コスギ ヤスコ) 一級建築士
日本大学理工学部建築学科卒
大高建築設計事務所入社、結婚を機に退職、その後育児に専念する。
現在、家づくりトータルコーディネートセンターで、住宅のあらゆる相談に応じる。