染谷正弘氏による連載コラム。住まいのお役立ち情報や話題の街の文化・周辺環境などをご紹介します。
上野駅からJR常磐線に乗り約30分、柏駅で人がどっと降りて車内も静かになり、しばらくすると豊かな緑の木々が車窓いっぱいにひろがる。緑の向こうにきらきらと光る手賀沼がちょっと見えたりして、ほっとしている間に我孫子駅に着く。今年のマンション供給戸数ベストテン内にも入って、いまや首都圏でも人気の街のひとつとなった我孫子。常磐線に乗って我孫子駅に降り立つと、その理由がわかるような気がする。
大型デパートが林立し何でも揃っている隣駅・柏の利便性を享受しながら、豊かな自然と歴史ある文化を享受する暮らし。しかも、街は静かで、地下鉄・千代田線に直結する始発駅だから都心まで座って通勤もできる。そんな賢い暮らし方ができる街、それが我孫子だ。
ところで、アビコという発音は、どこかアイヌや沖縄の言語の音韻に似ているような気がしてならない。アイヌや沖縄の人たちは、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。だから、我孫子という地名は、もしかしたら遥か遠い昔、縄文時代の名残(なごり)ではないだろうか。
古代遺跡の宝庫といっていいほどに、我孫子にはたくさんの古代遺跡が発見されている。最も古いものでは、我孫子駅北口近くで発見された後期旧石器時代(約3万年〜1万5千年前)の「後田南遺跡」がある。住居遺跡は、縄文時代前期頃からのものが多く、その頃はもう集落がつくられ定住が始まっていたという。我孫子には、1万年も前から人が住んでいたということだ。たぶん、その頃は海辺だったのだろう、貝塚もたくさん出土している。
ただ、その後の弥生時代の住居遺跡は急に少なくなって、人はほとんど住んでいなかったらしい。ネイティブの縄文人は、大陸から渡ってきた弥生人に追い出されてしまったのではないだろうか。そして、弥生人はここには定住しなかった。古墳時代の5世紀ごろからまた人は住み始め、いまに至っている。

こうして我孫子の歴史をひも解いてみると、僕の勝手な想像もそれほど的外れでないような気がしてくる。我孫子は、縄文文化が花咲いた地だった。
そして、手賀沼を語ることなくして我孫子を語ることはできない。我孫子の伝統、文化を営々と育んできた源が手賀沼だった。手賀沼は、自然の恵みの宝庫だった。
江戸時代、我孫子は江戸百万都市の米、野菜の食料供給地として、また手賀沼の鰻と鴨は一流ブランド品としてその名を馳せたらしい。特に鰻は手賀沼産というだけで高価で売れ、鴨は徳川将軍家への献上品としてかかせないものだったという。
また、大正、昭和の始め、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、バーナード・リーチ等、そうそうたる芸術家たちが手賀沼のほとりに居を構え、この地から日本全国へ文学、民芸運動の熱いメッセージを発信している。我孫子は、白樺派の発祥の地でもある。それが、我孫子が北の鎌倉と呼ばれる由縁であり、かつて手賀沼のほとりはそれほどに芸術家たちを魅了してやまない美しい水辺だった。
柳宋悦の妻、兼子は、我孫子に集まる芸術家たちによくカレーライスを作ってふるまっていたという。ハイカラな芸術家たちの暮らしを髣髴とさせるエピソードだ。そのカレーのレシピが残っていて、そのカレーを「白樺派カレー」と名づけ再現しようとがんばっている人たちが我孫子にいる。隠し味は、味噌らしい。
その美しい手賀沼が、日本一汚い河川という不名誉をいただいたのは、戦後の高度経済成長が始まって、柏、我孫子エリアがベットタウン化してからだ。しかし、いままた手賀沼の水質はどんどんきれいになっていて、かつての美しさを取り戻そうとしている。野鳥の楽園が復活する日もそう遠くはないだろう。そうなれば我孫子は、水と緑と文化のリゾートシティとして、ますます首都圏でも人気の高い街となるだろう。
染谷正弘(そめや・まさひろ)