染谷正弘氏による連載コラム。住まいのお役立ち情報や話題の街の文化・周辺環境などをご紹介します。
横浜・馬車道、なんてノスタルジックな響きなのだろう。この街の名を聞くと、いつもそう思う。そして、文明開化、異国の香り、ハイカラ、そんな言葉がすぐ浮かんでくる。日本の近代化は、西欧文明化そのものだったといっていい。江戸末期から明治、大正と、その西欧文明の玄関口となって、日本の近代化に大きく貢献してきたのが横浜港だった。現在の「馬車道商店街」通りには、その面影がたくさん残されている。
ペリーの黒船が大砲を鳴らして江戸幕府に開国を迫ったのが1853年。その頃の日本人の気分をよく表わしているのが、狂歌『泰平のねむりをさます 上喜撰(蒸気船) たった四はい(四隻)で、夜も眠られず』だろう。そして、1859年に横浜港が開港し、1867年にこの馬車道は造られている。その1年後の1868年が明治維新だ。
開港したばかりの頃の横浜は、侘しい小さな漁村だったという。その道路事情は、馬車も通れないほど狭く、ぬかるみ、デコボコだったに違いない。そこに、馬車専用の道路が忽然と出現することになる。居留地に住む外国人の強い要請があってのことらしい。



馬車道は、当時横浜港への出入りの関門だった「古田橋」から船着場までを一直線に結ぶように敷設されている。現在のみなとみらい線「馬車道駅」から地下鉄「関内駅」を結ぶ辺りだ。この敷設によって、貿易輸出入品の運送効率は俄然とアップしただろう。同時に、馬車が盛んに往来するその全く新しい道の景観は、スピード感にあふれ、当時の日本人にとってはたいへんな驚きだったに違いない。
まさに、この異国情緒あふれる馬車道の出現は、文明開化の幕開けの瞬間であり、日本の近代化への第一歩を象徴する出来事でもあった。そして、西欧文明の通り道となったこの馬車道には、落とし土産のようにたくさんの「日本初」が出現していくこととなる。
まず、1869年(明治2)、木造だった「古田橋」は、日本初の鉄骨造で柱脚の無い橋に変身し、「かねの橋」と呼ばれ親しまれるようになる。馬車の往来に耐え得る強固な橋にする必要があったのだろう。現在、古田橋は、馬車道と伊勢崎モールの結束点になっている。
そして、「古田橋」のふもとから東京へ、2頭だて6人乗りの日本初の乗合い馬車が走るようになったのもこの頃だ。横浜と東京を約4時間で結ぶこの交通機関の登場も、当時の日本人にとっては画期的な出来事だったに違いない。
日本で初めて街路にガス灯(写真)が設置されたのも、この馬車道だ。柱部は英国グラスゴーから輸入し、灯具は日本で作られたらしい。1872年(明治5)のことだ。その明るさは、横浜の漁師たちにとって、「キリシタンの魔法」とうわさされるほどに恐怖と驚きのまとだったという。
馬車道のガス灯は、まさに「文明の光」そのものだったろう。現在、横浜市市民文化会館前に、当時のガス灯が復元(写真)されていて、実際にその灯りを体験できる。この他にも、「イギリスからやってきたガス灯たち」と銘のある19世紀ロンドンの街路灯モデルが再現されていて、ノスタルジックなガス灯の明かりが夜の馬車道を灯している(写真)。
西洋からやってきた「日本初」が、馬車道にはまだまだたくさんある。
長崎の上野彦馬とともに、日本で最初のカメラマンとされる下岡蓮杖が、馬車道に写真館をオープンさせたのが1868年(明治元年)。1869年(明治2)の夏には、日本初の氷水店が馬車道通りにオープンし、日本初の「あいすくりん」つまりアイスクリームが発売されている。どちらも、おおいに繁盛したという。
そして、圧巻は「旧横浜正金銀行本店(現在:神奈川県立歴史博物館)」だろう。見事なまでに西欧古典主義建築様式をまとったこの重厚な建築は、明治時代の巨匠・妻木頼黄の設計で、1904年(明治37)に建設されている。文明の特性は、その文明の建造物に端的に現れる。古代ギリシャにその端を発する西欧古典主義建築様式は、西欧文明の象徴といっていい。
馬車道の敷設からほぼ40年、西欧諸国に追いつけ追い越せで始まった極東日本の近代化の基礎がようやく築かれたことの証しが、この旧横浜正金銀行本店の登場だったろう。異国の建築様式をまとったこの力強い建築は、横浜・馬車道の顔となるとともに、近代日本経済のさらなる発展の力強いシンボルとなっていく。
道は建築があってこそ、建築は道があってこそ、その真の姿を現す。馬車道は、旧横浜正金銀行本店とともに、真の横浜・馬車道になったといっていいだろう。
染谷正弘(そめや・まさひろ)