染谷正弘氏による連載コラム。住まいのお役立ち情報や話題の街の文化・周辺環境などをご紹介します。

ロンドンにはテームズ川、ニューヨークにはハドソン川、パリにはセーヌ川、そして東京には墨田川。大都市には、市民の暮らしを支える豊かな水辺があり、街の景観を豊かに彩る大きな橋がある。
いま、隅田川にはたくさんの橋が架かっている。その隅田川第一の橋と言われているのが、千住大橋。1689年の春、松尾芭蕉(写真)がこの橋のたもとから「奥の細道」へと旅立ったことはよく知られている。


千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋であり、その建造は徳川家康が関東に入国して間もない頃の1594年。江戸幕府が正式に開かれたのは1603年だから、時代としては江戸以前のことになる。
家康は、新しい幕府の拠点となる江戸の都市基盤整備として、何はともあれ隅田川に橋を架けることをまず実行したのではないだろうか。以来三百有余年、千住大橋が、百万都市・江戸の繁栄に大きく貢献したことはあらためて言うまでもないだろう。
特に、家康を祀った日光東照宮の建造を契機に、「奥州街道」は宇都宮までを「日光街道」と呼び改められ、江戸から東北・奥羽への第一の宿場町として千住は整備されていく。橋も宿もできれば、人も物も集まってくる。橋のふもとの荷卸し場は、江戸八百や八町の台所をあずかる幕府直轄の市場へと大きく成長し、千住界隈はおおいに賑わっていく。その光景を、広重や北斎の浮世絵からうかがい知ることができよう。
千住大橋は、何度も改修工事は行われたものの、江戸300年間一度も洪水で流されなかった名橋といわれている。徳川家の聖地・日光山への参拝の際、また東北地方の大名達が参勤交代の際に必ず渡るのがこの橋だった。だから、江戸幕府は威信をかけてこの橋を護ったのだろうと思う。橋の建材には水腐れに強い「槙(まき)」が使われていて、それを調達したのが伊達政宗だったというエピソードもある。
「伽羅(きゃら)よりまさる 千住の槙の杭」という川柳がある。千住大橋が木造から鉄橋にその姿を変えたのは1927年(昭和2年)のこと。木造の千住大橋への感謝の念と共にその頑強さや永続性にあやかろうと、解体後の橋杭は仏像や調度品の材料として随分珍重されたらしい。その川柳から、高価な香木の伽羅よりも千住大橋の杭のほうがありがたく貴重だという当時の庶民の想いがひしひしと伝わってくる。また、千住界隈の庶民の伝統・文化の底力をも感じる。
もっと千住界隈の庶民の伝統・文化の底力を体感したければ、千住大橋のたもとにある橋戸稲荷神社にお参りに行くといいだろう。この社は、拝殿は木造だけど、その奥にある本殿は真っ白な蔵作りで、そのぶ厚い両開き扉の裏側(全開すると表になる)には気品ある見事な白狐親子の鏝絵(こてえ)が対になって描かれている。作者は、名工・伊豆の長八(1815〜1889)。
本物を見ることはできないが、そのレプリカ(写真)が拝殿正面に飾られていて、そのすばらしさに僕は息を呑んでしまった。鏝絵は、漆喰(しっくい)を塗った上に鏝(こて)で描きだすレリーフで、石灰画とも言うらしい。長八が描いた白狐親子の鏝絵は、江戸の頃の千住界隈の栄華を偲ばせてくれる伝統工芸品、芸術作品といっていいだろう。
ところで、稲荷神社にはあたりまえのように狐が必ずいる。そのわけをご存知だろうか。豊穣を祈願する稲荷神社の社殿は、米(稲)蔵がルーツのように思えてならない。その米蔵に群がる鼠を食べて退治してくれる益獣が狐だった。稲荷神社と狐はそんな関係だったのだろうと僕は推測している。長八が描いた白狐親子を見ていると、米蔵の廻りを駆け回る狐の姿が目に浮かんでくるようだ。同時に、「豊穣」と「情愛」を願う庶民の想いが凛と伝わってくる。

千住大橋も橋戸稲荷神社も、京成線「千住大橋」駅のすぐ近くだから、散歩がてら訪れてみてはいかがだろう。千住大橋の真下から隅田川をのぞくのも一興だろう(写真)。また、近くには「千寿・竹やぶ」という蕎麦の名店がある。そこで舌鼓をうちながら江戸文化に想いを馳せるもの楽しいと思う。
染谷正弘(そめや・まさひろ)