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コラム

染谷正弘氏による連載コラム。住まいのお役立ち情報や話題の街の文化・周辺環境などをご紹介します。

街の記憶:浅草・・・聖と俗が渾然一体となった街

「女房と雷門で出っくわし」という江戸時代の川柳がある。この川柳、寺町にして歓楽街「浅草」の魅力と本質をよく表しているように思う。

江戸時代、浅草寺の北側裏手には、四方を水路に囲まれ碁盤の目のように整然と区画された遊郭「吉原」があった。江戸時代の浅草界隈の地図を見ると、吉原は、その特殊な街の形状もさることながら、浅草寺境内と比較しても結構大きく存在感がある。隣接しあう浅草寺と吉原、それはまさに聖と俗が渾然一体となった都市の姿といっていいだろう。そこに、浅草の原風景が垣間見えるような気がする。

江戸時代の男性は、「浅草寺参りに行く」と言っては、こっそりと吉原通いをしていたらしい。また、雷門あたりで浅草寺を横目に吉原に行くか行くまいかを迷ったのだという。そんなとき、女房とばったりと出会ってしまったバツの悪さや、後ろめたさを揶揄して詠ったのが上の川柳だ。「よい思案雷門を二度通り」という句もある。

その雷門、江戸末期の1865年に焼失していて、およそ1世紀もの間その姿はなく、現在の建築は松下幸之助氏の寄進によって1960年(昭和35)に再建されたものである。ちなみに、本堂も五重塔も1945年(昭和20)の東京大空襲で焼失し、それぞれ1958年(昭和33)、1973年(昭和48)に再建されている。浅草のシンボル浅草寺境内の朱色の建築群は、その多くが鉄筋コンクリート造で思いのほか新しい。

現在の浅草は、伝統的な下町というイメージが色濃いレトロ感覚あふれる東京の観光名所のひとつとなっている。でも、明治、大正の頃は、近代日本文化をリードする最先端都市だった。だから、明治以降、日本で「初めてのもの」が浅草からたくさん生まれている。

まず、西欧都市にあるような大きな公園をつくろうと、1873年(明治6)に日本初の都市公園のひとつに浅草寺境内とその界隈は指定されている。さらに、西欧都市をまねてこの界隈は、7つの区に行政区分されることになる。そして生まれたのが近代日本の演芸文化のメッカとなった浅草六区(ロック)だ。

以来、浅草は、明治、大正、昭和と、見世物小屋や劇場、パノラマ館、活動写真館など、様々な興業施設がひしめく日本一の大歓楽街へと発展していく。日本の芸能文化史を飾るたくさんのエンターテーナーもこの街から誕生していて、いまも現役で活躍する「欽ちゃん」こと萩本健一も、いまや世界の映画監督北野武も、この街でコメディアンの修行時代を過ごしている。

浅草が近代都市へと変身していくその過程は、聖と俗が渾然一体なった街へとさらにパワーアップしていく過程だったともいえよう。いまもその面影を残すかのように、浅草六区の一画に、浅草「六芸神」という小さなお社が建っている。唄神(うたいがみ)、演神(えんじがみ)、戯神(おどけがみ)、踊神(おどりがみ)、奏神(かなでがみ)、話神(はなしがみ)の六神が奉られていて、どこかほのぼのと微笑ましい。

美人コンテスト発祥の地も浅草である。艶っぽいオーラを発する浅草ならではのイベントだろう。1891年(明治24)に開催された「百美人」というこのコンテスト、その参加者は一般女性ではなく、赤坂、新橋、吉原、向島などの花街の芸妓たちだったという。しかも、お見合い写真のようなポートレートを大判にして展示し、投票によって優勝者、当時のミス東京は決められたらしい。その会場となったのが、幻のタワー「浅草稜雲閣」である。

浅草稜雲閣は、関東大震災で倒壊してしまうのだが、それまで日本で唯一、一番の高さを誇るタワー状の高層建築で、いまの東京タワーのような存在だったろう。高さ67m、12階建て、木造・煉瓦づくりの展望台兼レストランのこの建築は、「浅草十二階」とも呼ばれ、日本で初めてのエレベーター付きの商業ビルでもあった。1890年(明治24)の建設だから、先の美人コンテストはこの商業ビルのプロモーションのひとつだったに違いない。

浅草といえば、もうひとつ忘れてならないのが遊園地「花やしき」だ。その開園は、江戸時代の1853年だという。150年というその歴史に、この遊園地の底力を感じる。国産初のジェットコースターや日本初のシミュレーションシアターが設置されたのはこの「花やしき」だという。最近の巨大なテーマパークとは比べようもないが、このヒューマンスケールな遊園地は「山椒は小粒でもピリリと辛い」といったところだろうか。

日本初の地下鉄の開通が、上野と浅草間だったことはよく知られていよう。それが1927年(昭和2)、そして1934年(昭和9)に銀座までつながる。銀座、上野を結ぶこの地下鉄「銀座線」の開通が、浅草を大都市東京の庶民文化のメッカへとさらに強化していくことになる。

聖と俗が渾然一体となった豊饒な庶民文化が街中に満ちているところに、今も昔も変らぬ浅草の都市としての魅力と底力はあるといっていい。

その聖と俗がもっとストレートに一体化した街がある。オランダのアムステルダムだ。街の中心の大聖堂のすぐ背後に、娼婦があたかも商品のようにディスプレイされた「飾り窓(ショーウィンドウ)」のある娼館が軒を連ねていて、その一画には「世界中の娼婦に捧ぐ」という銘が刻まれた小さなモニュメントも建っている。その街の成り立ちは、かつての浅草寺と吉原との関係によく似ている。

都市空間にあって、聖と俗は光りと影のようなものだろう。ただ、どちらが光りでどちらが影かわからない、またときにその光りと影は移ろいあう。そこに都市の魅力はあろう。江戸庶民は、「助けるも迷わせるも浅草寺」という川柳も残している。

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染谷正弘染谷正弘(そめや・まさひろ)
建築家、住環境研究家
(株)デザインショップ・アーキテクツ代表、文化女子大学講師戸建住宅や集合住宅の設計を中心に、住まいづくり、街づくりにたずさわる。
最近は、「コミュニティをデザインする」という発想のもと、大規模集合住宅のデザイン・プロデュースを数多く手がける。
(株)デザインショップ・アーキテクツ:http://www.ds-architects.co.jp