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コラム

染谷正弘氏による連載コラム。住まいのお役立ち情報や話題の街の文化・周辺環境などをご紹介します。

街の記憶:日本橋の麒麟・・・江戸から東京へ、そして日本へ

新橋、曙橋、竹橋、呉服橋、参宮橋、浅草橋、飯田橋、そして日本橋、都心に「橋」のつく地名は結構多い。その昔、都市の多くは、水運が交通の主役だった。だから、道を造ること以上に、海辺を埋め立てて運河を造り、河の流れを変え、網の目のような大小の水路をはりめぐらし、都市は拡大、発展してきた。江戸の頃よりの東京も同じである。かつて、東京は美しい水の都だった。「橋」のつく地名が多いのも、その名残(なごり)だろう。

ところで、日本橋には、なぜ「日本」という名が付けられたのだろう。よくよく考えてみれば、国名が冠された橋なんて、それはすごいことだ。さらには、そもそも「日本」という国の名は、いつ頃登場し、いつ頃から今日のようにあたりまえに使われるようになったのだろう。日本橋界隈(かいわい)を散策していたら、そんな素朴な疑問が、沸々と湧いてきてしまった。

日本に生まれて日本に暮らす日本人が、自分の国は「日本」であると誰もが思うようになったのは、やはり日本が近代国家となった明治維新以降のことだろう。それまでは、自分の国や出身地を問われれば「・・藩の・・村」と誰もが答えていたのではないだろうか。幕藩体制のもと鎖国政策を強いてきた江戸幕府が崩壊するまで、自分の国は「日本」であると明確に意識していた者はいなかったし、その必要もなかったろう。

では、「日本」という国名は、正式にいつ誕生したのか。『歴史を考えるヒント』(網野善彦・新潮選書)によれば、大宝律令(701年)が制定された頃で、その意味は「日出づるところ」、太陽が昇る場所だという。それまで、中国大陸の列強諸国は、東方に位置する日本列島を属国と見ていて、「日出づるところの倭国」と呼び慣わしていた。日本が律令国家として統一され、国の形を成し始めた頃、倭国の名が消えて「日出づるところ」だけが残り、「日(ひ)」の「本(もと)」の「日本(にほん)」となったのだろう。

ということは、「日本」は、古代から中世にかけて中国大陸側から見たときの呼称であって、アジア地域における一地名だったと考えていい。それが、自他ともに認める国名となって、さらに日本列島に暮らす人々に定着したのは、つい最近のことである。このことを史実として認識しておくことは、私たち日本人にとっていろいろな意味において大切だと思う。

さて、日本橋である。徳川家康が、江戸に幕府を開いて江戸城を築き、最初に架けた橋が日本橋だという。1603年のことで、二本の丸太で架けられていたから「二本橋」と呼ばれ、いつのまにか「日本橋」となったという説もあるが、その真偽は定かではない。

江戸城のお膝元に位置する日本橋は、「お江戸日本橋ななつだち・・・」と唄われたほどに日本各地への交通の起点として陸運、水運の要衝となり、それ故にこの界隈は商業、金融の中心街へと発展、そして江戸文化の情報発信、受信基地となっていく。そして、江戸は、家康が思い描いた通りの「百万都市」となり、日本橋はまさに江戸の顔、江戸の象徴となる。

日本橋界隈は、日本各地の物品が集まるさながら国際都市のようだったろう。幕藩体制で鎖国時代に生きた人々にとって、「藩」の集合体である日本がこの世のすべてであり、お江戸日本橋は日本列島の全藩に通ずる橋、つまりは世界の中心だった。江戸庶民のそんな世界観から、日本橋は「日本=世界」の橋、「日本橋」と呼ばれていたのだろう。

明治維新以降も、日本橋界隈の都市機能は変ることはなかった。さらに強化されたと言ってもいいかもしれない。江戸の老舗大商店は百貨店へ、金座は日本銀行へ、さらに証券会社も林立し株取引のメッカとなり、江戸から東京への近代化を象徴するかのように西欧の様式建築が街並みを形成していく。

そのひとつに日本橋もあった。最初に橋が架けられてからおよそ300年、この橋はその間に19回の改修、架け替え工事がおこなわれていた。1911(明治44)年、木造から石造アーチの恒久橋に架け替えられ、日本橋は大きくその姿を変えて現在に至っている。そのルネッサンス様式の橋梁本体の上に、日本古来よりの獅子、麒麟、灯篭をモチーフにした青銅の彫刻群が飾られたこの橋のデザインには、どんな想いがこめられているのだろう。

獅子は「守護」を、麒麟は「繁栄」を象徴していて、橋銘は最後の将軍徳川慶喜の直筆によるものだと、橋のたもとの説明プレートには記されている。ただ、中国思想に登場する幻想の動物である麒麟は、「仁」のある政治を象徴する神聖な生き物だともされている。「仁」とは、一言でいえば「人への優しさ」だという。

新しい東京の象徴とすべく日本橋をデザインしたのは、明治・大正時代に活躍した官僚建築家・妻木頼黄(つまきよりなか)である。彼は、倒幕された側の旗本の嫡子で、勝海舟の家の近所で生まれ幼少を過ごしている。幕末に生きた彼の父と勝海舟は、同じ幕臣として親交が深かったという。

明治維新の際、官軍が江戸を戦火の海にしようとしていた寸前、官軍の大将西郷隆盛と会談し江戸城を無血開城することに貢献したのが勝海舟だった。そして徳川家最後の将軍も生き残る。勝海舟の幼少時代の名を「麟太郎」という。麒麟の「麟」である。

街並も何もかもが江戸から東京へ、そして世界のなかの日本へと劇的に様変わりしていく明治時代、元旗本武士・妻木頼黄は、新しく生まれ変わろうとする日本橋に、徳川慶喜の「橋銘」と勝海舟の「麒麟」を搭載し、江戸の鎮魂を永遠に刻もうとしたのではないだろうか。もちろん、これは僕の勝手な推測でしかない。

いま、日本橋の麒麟は、鉄の魁でしかない高速道路を必死に支え、「人への優しさ」を忘れるなと吼えているかのようである。その光景は、いまの日本を暗示してはいまいか。私たちの「日本」は、どこに向おうとしているのだろう。日本橋の麒麟は、そんなことを考えさせてくれる。

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染谷正弘染谷正弘(そめや・まさひろ)
建築家、住環境研究家
(株)デザインショップ・アーキテクツ代表、文化女子大学講師戸建住宅や集合住宅の設計を中心に、住まいづくり、街づくりにたずさわる。
最近は、「コミュニティをデザインする」という発想のもと、大規模集合住宅のデザイン・プロデュースを数多く手がける。
(株)デザインショップ・アーキテクツ:http://www.ds-architects.co.jp