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語る・立教大学
語る人



 大学へ行く気もその学力もなく、高校を出てからぶらぶらしていたぼくは、翌年、ものは試しということで立教大を受験し、幸運にも合格することができました。勉強しなければ点が取れない社会のかわりに、得意だった唯一の科目である数学が受験科目になっている文系の大学を探したところ、立教大の社会学部産業関係学科がその数少ないひとつだったんです。それだけの理由で選んだ大学でしたが、入ってみるとどの先生の講義も個性的で面白く、1、2年次の時は非常によく授業に出る学生でしたね。萩原朔太郎を中心に教える近代詩の授業とか、当時とても人気のあった「宇宙科学」や「自然人類学」など印象深い科目はたくさんありますが、とりわけ夢中になって出たのが蓮實重彦先生の「映画表現論」です。指定された映画を観てきて、「その映画で何が見えたか」を学生が順に発表するというのが通常の授業の進め方でした。「見えたことしか語ってはいけない」というルールが設けられていたのですが、誰もが面白いほど見てもいないものを「見た」と言うんですね。例えばあるラブストーリーに関して「男女の愛に感動した」などと報告しようものなら、「そんなものがどこに見えたのか」と先生に言われてしまう。「愛など目に見えるわけはなく、画面に映りようがない。あたかも男と女が愛し合っているかのようなストーリーから、あなたはそれを見た気になっているだけなのだ」とやり込められるんです。『未知との遭遇』について「特撮の技術がすごかった」と発言すれば、「なぜあのUFO を特撮だと断定できるのか」と反駁され、つまり蓮實先生は我々に、疑うことなく受け入れている既成の価値観をひっくり返してみなさいということを教えてくれたわけなんですね。
そんな授業に毎週出ているうちに、映画の見方のみならず、自分のありとあらゆる価値観や先入観が崩れていくのを感じました。ものの考え方そのものが根底から覆されたと言ってもいいでしょう。もしもあの授業に出会っていなければ今の自分はなかったのではないか、そう思わせられるほど蓮實先生の授業には大きな影響を受けました。



 高校時代から8ミリ映画を撮っていたぼくは、入学と同時に立教SPP (セントポールプロダクション)という自主映画製作サークルに入りました。そこではサークル全体で年間1、2本の映画を作ることになっていたのですが、撮るのは3、4年次生で、1、2年次生はその手伝い、という暗黙のルールがあったんです。ぼくは自分で映画を作りたくてそのサークルに入ったのにそれでは面白くありませんから、がむしゃらにシナリオを書いて上級生を説得し1年次から自分の映画を取り、翌年からは撮りたい人が自由に撮れるようにサークルの体制を変えてしまいました。
一部のメンバーから「おまえは自分の作品のためにサークルを私物化している」と非難の声が上がりましたが、「そうだよ。でも何が悪い。君も撮ればいいじゃないか」と居直っていましたね。とにかく映画が撮りたくて撮りたくてしかたがなかったんです。でも、安い作品で2、3万円、高いもので10万円以上かかる8ミリ映画の製作費は当時の学生には相当な負担でしたから、アルバイトでお金を貯めては撮るという感じで、年間1、2本製作するのがやっとでした。映画の作り方など誰からも教わらず、自分たちで試行錯誤しながらの撮影でしたが、後に携わった商業映画の現場でもけっこう同じやり方をしていて、「なんだ、プロも似たようなものじゃないか」と思ったものです。撮るだけではなく観る方にも熱心で、今学生時代を振り返ると「とにかく映画を観ていた」という記憶が大きいですね。手当たり次第に観て、どんなに高名な芸術作品にもくだらないものがあり、一見ばかばかしいハリウッド製の娯楽作品にも非常にレベルの高いものがあることがよくわかりました。蓮實先生の授業を受けていたおかげで、世間一般の映画評になど左右されることなく、自分自身の目で映画を観ることができていたんだと思います。



 3年次生の時に撮った作品がたまたま長谷川和彦監督の目にとまり、4年次生の時に誘われてその監督作品の製作現場にスタッフとして参加することになりました。卒業時期と重なってしまい、現場から戻ってみると留年が決まっていたという感じでしたが、卒業してから映画関係の職業に就こうとは、特に考えていませんでしたね。「好きな映画のそばにいたい」という純粋な気持ちだけがあり、アルバイトをしながら8ミリ作品を撮り続けるとか、趣味としてでもずっと映画に関わっていられればそれでいいと思っていました。好きなことがあれば職業なんてどうだっていいんだというところがあり、就職という制度をかわして自分の道を歩む学生はまわりにも多くいました。サークルの同輩や後輩にも、映画以外の仕事をしながら情熱を捨てず、40歳前後になって監督としてデビューを果たした人が何人もいます。実を言うとぼくには今も「ただ好きな映画を撮っているだけ」という感覚があり、「映画監督」なる職業に就いたという意識がありません。なぜなら、それでお金をもらおうともらうまいと、映画を撮る人はみな「映画監督」だからです。自主映画を作っている若い人などから「どうすれば映画監督になれますか」と質問されると、ぼくはこう答えることにしています。「君はすでになっているよ。だって映画を撮っているじゃないか」。さて、あらためて大学とはどういうところなのかを考えると、それはけっして就職をするための機関などではなく、20歳前後という時期に触れておくべきこと、知っておくべきことを授業で学び、そして自分自身で何かを見つける場なのではないでしょうか。少なくともぼくにとっての立教大学とは、そのための場所でした。そういう意味において、大学時代は人生を左右してしまうほど決定的な期間に違いないと思います。
PROFILE
くろさわ・きよし。1955年兵庫県生まれ。75年に立教大学社会学部に入学し、映画製作サークルに所属して8ミリ映画を撮り続ける。在学中に製作した作品が注目され、4年生の時に長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』に製作進行として参加。卒業の翌年、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』で助監督を担当。その後長谷川和彦監督らと映画製作会社ディレクターズカンパニーを設立。主な監督作品に『CURE キュア』『ニンゲン合格』『カリスマ』『降霊』『回路』など。
予告 次回(6月1日更新予定)は俣木盾夫(株式会社電通社長)さんに在学中の思い出を語って頂きます。ご期待ください。

なかにし礼さん(作家)
服部幸應さん(服部栄養専門学校理事長・校長)
関口 宏さん(タレント)
俣木盾夫さん(株式会社電通社長)
相島一之さん(俳優)
乾 貴美子さん(タレント)
小宮山昭一 立教大学理事長
東アジアという共同体が、
やがて世界に大きく貢献する。

(法学部 教授 李 鍾元)
立教学院創立130年記念事業旧江戸川乱歩邸公開記念サイト更新しました

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