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チャプレンの言葉

「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」 
(テモテへの手紙1 6章19節) 立教大学チャプレン 八木 正言

2010年7月1日掲載

“楽”という字について。訓読みは「たのしい」と読み、音読みは「らく」と読む。この両方の読みについて辞書で調べてみると、「たのしい」の方は「満ち足りていて愉快な気持ちであること」とある。一方「らく」の項目を見ると、「心身に苦痛などがなく、快く安らかなこと」とある(『大辞泉』、小学館、1995)。同じ字をあてがいながら「たのしい」と「らく」では若干の相違がある。読みによって意味が違うという字はほかにもあるだろうし、別段気に留めるほどのことはないのかも知れない。むしろ楽という字の場合は、音訓双方の読み方とも意味が比較的似ているとも言える。

しかしあえて、この読みによって生じる意味の差に着目したい。私見であるが、この両語には次のようなニュアンスの違いがある。

「たのしい」は、自ら充足を得、愉快な気持ちに到達できるようにと努力した結果与えられる感覚であり、「らく」は、自ら努力した結果というよりも「棚からぼた餅」、がんばろうとしたものの意外にも努力は必要なかった、そんなときに用いるのではないだろうか。身近にいる学生諸君の「らく」の用い方を聞くにつけそう思う。“この授業、超楽勝!”“試験はレポートだから楽だよ”などといった具合。そしてこの時代、求められているのは「らく」であって「たのしい」ではないと、先述の学生諸君の会話からも思わされる。

しかし、トンネルを抜けるからこそ出口の明るさが有り難く嬉しいように、本当の「たのしい」も努力の結果だからこそ喜びとなる。いや「たのしい」だけでなく、例えば「ありがとう」も、それは相手が自分のために尽くしてくれたという思いから生じる言葉であり、つまりは結果に至るまでの相手の努力に思いをはせることができて初めて抱く感情である。言い換えれば、結果に至るまでの相手の努力に対する想像力が必要であり、この想像力は同じ経験を踏んだ者にこそ分かる感覚、その過程を経験し実感していない者には分かりにくい。だから一時の「らく」のみを求めてばかりいては、本当の「たのしい」は忘れ去られたままになるのでは、そんなふうに思う。

だから日々「らく」ではなく「たのしい」を目的にし、その「たのしい」のための努力を軽んじないようにしたい。「らく」も本来は「楽は苦の種 苦は楽の種」であるのだから。

「チャプレンからの今週の言葉」2010年6月7日号より