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チャプレンの言葉

2013年5月13日掲載

私たちはいつも「ないものねだり」をしてしまう。これがあればもっと便利になる、あれがあればもっと楽になる、ついそのように考えてしまうものだ。そのような思いはいつしか不平不満へと変わっていく。これがあればという思いが、これがないから不便だ、あれがないから苦労しているという思いに姿を変えていってしまうからだ。

旧約聖書出エジプト記には、エジプト王ファラオのもとで奴隷とされていたイスラエルの人々が、神から召されたモーセによってエジプトから救い出されていく出来事が記されている。「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」「彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。」(出エジプト記1章11節、13節)と記されており、イスラエルの人々がいかに苦しい日々を強いられていたかが分かる。イスラエルの人々が、モーセを通して働かれる神の導きによってエジプトから脱出することができた時には、救われたことにどれだけ喜び、神を賛美しただろうか。まさに命からがらの脱出であった。

その後、イスラエルの人々は荒れ野を旅していくことになる。その中で、イスラエルの人々はモーセに向かって不平を述べる。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(同16章3節)。奴隷として働かされている者に、肉の入った鍋や腹いっぱいになるほどパンが与えられるはずがない。彼らは激しい虐待や厳しい労働の痛みを忘れ、今ある空腹に不満を抱いているのである。救いだされた命と与えられた自由を見つめずに。

私たちは、今の自分や生活に何が足りないかといつも考える。自分や生活を向上させたいと願いすぎる結果、ないもの、できないこと、不便なことばかりを見つけてしまい一向に満足することがない。いつも足りないピースばかりを探して、それが見つかれば違う足りなさを見つけ出し、それを満たそうとしてピースを探し始め、完成することのないパズルを作っているようだ。

ないものを補おうと努めていくことばかりが人を向上させるわけではないと思う。与えられているものをしっかりと見つめ、与えられている喜びと感謝の中にとどまりながら歩んでいくことが人を豊かに向上させていくこともあるのではないだろうか。与えられている生活、環境、出会いなどから、喜びと感謝を見出すことで、人は豊かに満たされていくと思う。

また少し話はそれるかもしれないが、聖書の時代とは違い、現代は物も情報もあふれている。その中で私たちはどれが一番自分に適しているか常に選択を迫られている。しかしそれらの選択には、どれを選んでも明日からすべてが変わってしまうというほど重要なものはほとんどない。私たちにとって本当に思い悩んで決断しなければならない選択は、そう多くはない。

いつもないものを探すこと、また何を選ぼうかと悩むことは、必ずしも私たちが満たされることにはつながっていかない。いつもないものを探し、思い悩んでいる自分を生きるよりも、与えられていることを受け止め、喜びと感謝をもって自分を生きることの方が、私たちは満たされていくのではないだろうか。

体には生活の忙しさや疲れを感じる日々を送ったとしても、心には与えられ、満たされている喜びと感謝がいつもある日々を歩む私たちでありたいと思う。

雑誌『立教』第224号より