7月1日掲載

旧約聖書が人類の古典の一つであるということは、この書がユダヤ教およびキリスト教における信仰の規範書にとどまらないということである。旧約聖書を狭義の神学的枠組みから解き放って、歴史という大きな脈絡に置いてみたとき、そのことがほの見えてくる。そのために、私はいくつかの回り道をした。
回り道の一つは古代西アジア宗教文化の研究である。1975年から5年余、南ドイツの小さな大学町で旧約聖書学を専攻する傍ら、楔形(くさびがた)文書の研究に打ち込んだのである。当初、それによって旧約聖書の宗教文化史的背景を確認しておきたい、というほどの心づもりであった。しかし、ほどなく、古代メソポタミアの人々が絵文字から発達させた楔形文書の世界はそれ自体が膨大な研究領域であることを知った。彼らは紀元前3000年紀後半からほぼ2000年にわたり楔形文字を駆使して、神話や歴史記述、法典や裁判記録、占い文書や宗教儀礼書、祈りや嘆きや讃美の詩歌、人生の諸問題を考察した知恵文学、公私を問わぬ書簡など、後の人類が歴史に遺した文書のほとんどのジャンルを粘土板に刻んでいたのである。これらの楔形文書は19世紀半から始まる古代西アジアの遺跡発掘調査によって発見され、その解読と研究はアッシリア学と呼ばれている。私はこれに魅せられ、数年かけてアッカド語(部分的にはシュメル語)の宗教儀礼書を研究した。これを学位論文『古代メソポタミアにおける死者供養の研究』にまとめて、かの地の大学に提出したのは1980年であった。いま思えば、論文は必ずしも完成度の高い研究であったとはいえないが、幸い、ドイツで定評のある学術叢書『旧約聖書と古代オリエント』の一冊として出版され、いまなお、この分野の基本文献として引用されている。
帰国して立教大学に奉職した私は、小さな研究会で15年かけて、メソポタミアの代表的な叙事詩を読み続け、その翻訳を上梓した(拙訳『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店、初版1996年)。その間、日本オリエント学会などを通じて、日本の博物館や大学に未解読のままの楔形文書が少なからず所蔵されていることを知った。それまで日本にアッシリア学者はいなくはなかったが、アッカド語の楔形文書粘土板をじかに解読する訓練を受けた研究者は皆無に近かったのである。そこで私は、これまで、日本にある70点余の未公刊粘土板文書を解読し、これを発表した。その中の一点、アッシリア王エサルハドン(前7世紀)が刻ませた神殿建立碑文などは、驚いたことに、大英博物館所蔵の碑文の片割れであった。現在は、紀元前1600年前後に北メソポタミアで刻まれた未公刊の卜占(ぼくせん)文書15点の公刊にとりかかっている。立教大学に古代オリエントの専攻分野がないために、このようなアッシリア学研究を本学の授業に生かせないのは残念でもあるが、実は、本学の図書館にも複数の楔形文書が所蔵されている。定年を迎えるまでに少なくとも本学で一人は古代オリエント学の研究者を育成し、これらを解読させたいものと念じている。
このような楔形文書世界が旧約聖書と深く関わることは、いうまでもない。例えば、ノアの洪水物語が楔形文書に残る洪水伝承を下敷きにしていることなどは広く知られていよう。そもそも旧約聖書の歴史書や預言書は、その多くの部分がバビロニアおける捕囚時代にまとめあげられたのである。楔形文書世界からの多大な影響が旧約聖書にみられるとしても、そこに何ら不思議はない。昨年、2冊目を上梓し、定年時に全6冊で完成させたいと願っている旧約聖書の詩篇研究(『詩篇の思想と信仰』I、II、新教出版社)において、私はメソポタミアの詩歌との比較を試みている。
それにしても、このような楔形文書研究から実感されることは、旧約聖書を残した古代イスラエルの民が文化的に古代メソポタミアの世界に及ぶべくもなかった、という事実である。文化が高いほうから低いほうに流れるものだとすれば、前者が後者の影響を被ることは必然であったといってよい。事実、紀元前9世紀からイスラエルはアッシリア帝国の脅威に晒され続け、紀元前722年に北王国が滅ぼされた。紀元前587年には、バビロニア軍の攻撃の前にダビデ王朝は消滅し、主だった人々はバビロニア捕囚に連行されている。ペルシア時代にバビロニア捕囚から帰還した民はエルサレム神殿を再建するが、政治的な独立は望むべくもなかったのである。
ところがこの弱小の民は、一方で、古代西アジアの文明世界から多くを継承しながらも、他方では、古代の大文明世界にはついぞ現れることのなかった、目に見えない強烈な唯一神信仰を育み、これを旧約聖書にまとめて後世に伝えた。そして、この唯一神信仰は後のユダヤ教とキリスト教が成立する土壌を形づくり、イスラム教にまで引き継がれてゆく。こうして旧約聖書は人類の精神史に測り知れない影響を及ぼしてゆくのである。古代大文明が衰退し、砂漠の土に埋もれてゆくなかで、後の人類の歩みに深く関わってゆくことになるのは大文明の辺境の地で成立した一冊の書物であった。それは「人類宗教史上の最大の逆説」であったと言ってよい。こうした歴史の逆説性が私にほの見えてきたのは、古代メソポタミアの楔形文書の研究を通してであった。
もう一つの回り道は考古学である。1974年の夏、日本オリエント学会から派遣された日本聖書考古学調査団によるテル・ゼロール遺跡の第4次発掘調査に、大学院生であった私は団員として参加する機会を得た。テル・ゼロールはイスラエルのシャロン平原の北に位置する遺跡であり、1960年代に実施された3次にわたる調査はすでに国際的にも評価されていた。この発掘調査への参加は、旧約聖書が成立した地に初めて肌で触れたという意味で、忘れがたい想い出である。それによって私は、遺跡から大量に出土する、何の変哲もない土器のかけらが考古学的に重要な意味を持つことを知ると同時に、旧約聖書を残した民の日常生活の痕跡に触れたのである。また、週末毎に訪ねた遺跡の数々は無言のうちにそれ以上のことを物語っていた。
遺跡はさまざまな時代層が一箇所に積み重なってテル(遺跡丘)をなしているが、多くの場合、イスラエル時代の居住層はその規模において、また物質文化の点で、それ以前の時代層よりも貧弱であった。旧約聖書は、イスラエルの選民思想を表明する箇所で、神がイスラエルの民を「選んだのは、あなたたちが他のどの民よりも貧弱であった」からだと記しているが、それは決して誇張ではなかったのである。また、例えばエリコ征服物語の場合がそうであるように、旧約聖書が描き出す初期イスラエルの物語群は史実として証明されえないことも知った。こうして、私は聖書考古学を通して旧約聖書を読み直してみようと心に決めたのであった。発掘調査団も若い私を聖書考古学者に育てようとの意向を示してくれた。だが、その翌年、石油ショックのために発掘調査団は資金調達の道を閉ざされ、発掘はそれ以上に続かなかったのである。私は再び文献研究に戻り、前述したように、ドイツで楔形文書の研究に打ち込むことになった。
ところが、私が立教大学に着任して数年後、イスラエルの著名な考古学者M・コハヴィ教授から、ガリラヤ湖東岸のエン・ゲヴ遺跡発掘調査を促す書状が日本に届いた。かつてのテル・ゼロールの調査団員は、パレスティナ問題を抱えるイスラエルでの発掘調査の是非を討議したうえで、1990年度から文部省(当時)の科学研究費による発掘調査の再開に踏み切った。こうして私は再び聖書考古学に携わることになったのである。
エン・ゲヴ遺跡の調査は断続的に9次にわたって続けられ、2004年度に終結した。第3次までは金関恕(かなせき・ひろし)天理大学教授が、第4次以降は私が団長をつとめた。さらに2006年度からは、下ガリラヤのもう一つの遺跡テル・レヘシュの発掘調査が立教大学、テル・アヴィヴ大学、天理大学、慶応義塾大学、同志社大学などの研究者との協力体制のもとで開始された。10年ほど前に本学で学位を取得し、現在はソウルの大学で教鞭を取る林相国(いむ・さんぐく)教授もこれに加わる。テル・レヘシュはイスラエルに残る数少ない未発掘の大型遺跡であり、旧約聖書に言及される都市の一つアナハラトと同定され、国際的にも大きな期待が寄せられている。
聖書考古学は遺跡の発掘調査とそこに出土する遺構・遺物の分析を通して、旧約聖書を残した民の具体的な生の営みを明らかにするだけでなく、旧約聖書からは知られてなかったさまざまな事実を白日のもとに照らし出す。それゆえ、例えば古代イスラエルの起源について、いまや考古学的資料に基づく居住史研究を無視して、これを論ずることすることはできない。それは、もう一方で、旧約聖書に記された歴史が単なる史実とは区別されねばならないことを意味している。また、考古資料によって明らかになるイスラエル王国時代の多神教的実態は、旧約聖書にみる唯一神信仰が所与の事実ではなく、少数の信仰者による自覚的運動のなかで成立したことを示している。
こうして聖書考古学はそれまでの旧約聖書の読み方にある種の変更を余儀なくさせる。それを一言でいえば、旧約聖書は単なる一民族の歴史と信仰の記録としてでなく、自覚的な唯一神信仰のもとにこの弱小民族の歴史を解釈して語り直し、彼らがおかれた世界を洞察した書物として読まれなければならない、ということであろう。そしてその解釈と洞察のなかに、時空をこえ民族をこえて、読む者をとらえる旧約聖書の信仰と思想がたたみ込まれている。はじめに述べた旧約聖書の古典性がここに浮かび上がる。楔形文書研究と聖書考古学―さらにはここでは触れることのできなかった宗教史学―という回り道をしながら、ようやく私は私なりに旧約聖書を読み解く出発地点に辿り着いたと感じられるようになった。
「立教」第201号掲載