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香山リカ対談

死刑制度を考えることから見えるメディアと日本社会
映画監督・作家 森達也×立教大学教授・精神科医 香山リカ

2008年7月1日掲載

メディアリテラシーという一つの可能性

  • 森達也イメージ
  • パンクの格好をしたお兄ちゃんも警察に「ちょっと鞄見せて」とか言われると「はい、どうぞ」ってペコペコしている。断れば済む話なのに。最近の若い奴はわかっていない。
  • 対談イメージ

 つい昨日、北千住駅で職務質問されました。もちろん任意だから応じるかどうかは自由です。ところが断ってもしつこい。最後には歩く方向に立ち塞がって、交番に来いと言い出した。「それは強制か?」と聞くと「いいえ、任意です」(笑)。

香山 私たちくらいの世代だと権力にはとりあえず反抗するところはありますが、最近の若い人は素直に聴取に応じちゃいますよね。

 髪はモヒカンで二の腕にはタトゥーが入っているような若い男の子が、警察に「ちょっと持ちもの見せて」とか言われると「はい、どうぞ」ってあわてて鞄を差し出している。応じるかどうかの選択はこちらにあるとの発想がない。というか知らないんでしょうね。

香山 若者と憲法論議をするときに「憲法は国家権力を監視する装置ですよね」と話すと、 「何で悪いことしていない政府を監視するんですか」とか言うんです。この今の若者の権力に対する素直な信頼っていうのは、一体どこからきているんでしょう。

 日本人は元々そういう傾向は強いかもしれない。最近、占領期の資料を見直す機会があったのだけど、統治権力の主体が、とてもあっさりと天皇からGHQにスライドしていることを改めて実感しました。テロやレジスタンスなどほぼ皆無です。統治されることに対しての摩擦係数がとても低い。

香山 確かにそうですね。

 そんな民族性が、悪化する体感治安を媒介に、より露骨になっている。

香山 逆に、不安と恐怖が大きいからこそ、権力に守ってもらうしかない、と。

 はい。だからこそ死刑存置を求める声がこれほどに高くなる。

香山 死刑肯定派の人は自分が加害者になるかもしれないとは全く思わないんですよね。

 オウム信者を被写体にした映画『A』がテレビから排除された理由は、信者たちが普通の人たちとして画面に映りこんでいるからです。社会はこの事実を容認できない。善悪の境界が不明瞭になることに耐えられない。あれほど凶悪な事件を起こした彼らは実際に凶悪であってほしい。あるいは洗脳されて異質な存在でなければならない。市場原理に埋没したマスメディアは、マーケットのこの欲望を裏切ることができない。こうしてメディアを媒介に善と悪の純度は激しく上昇し、加害者のモンスター化は促進され、自分が持つ加害の可能性など想像すらできなくなる。善と悪が入り交じっているのが人間なのに、その発想を持てなくなる。善良で優しいオウムの信者たちがなぜあれほどに凶悪な事件を起こしたかを考えることが重要なのに、善悪の二項対立にすべてが回収されてしまう。

香山 かつては「私の内なる○○」「社会が生んだ犯罪」という言い方もあって、それが犯罪を理解する一つのスタンスでしたが、今ではそういう見方は許されない風潮ですよね。

 第三者にとっては、加虐よりも被虐の側に感情移入した方が楽ですから。でもアウシュビッツが結局はイスラエル建国と中東戦争を経て9・11に結びついたように、純化されすぎた被虐の記憶は加虐へと反復しながら連鎖します。