4月1日掲載

四肢を鍛えよ
泥まみれの爪先
老獪な筋肉
猛然と在る、、、我
何処へでも往け
蝋燭一本片手に、、、我
昨年作った劇団紹介文である。各行の最初の文字を縦に読むと“しどろもどろ”になる。どこか厳めしく時代遅れなイメージ。しかし、私たちはこのような在り方で演劇に取り組んでいる。
「劇団しどろもどろ」は、1975年に発足し、江本純子氏主催の「毛皮族」を輩出した約30年の歴史を持つ劇団である。2007年には関東初の大学生による演劇祭「シアターグリーン学生芸術祭vol. 1」の出場団体に選ばれ、伝統ある「第19回池袋演劇祭」にも参加し、多くの観客の前で作品を披露してきた。作風を一言で表すことはできない。しかし頻繁に言われるのが、「まったく意味がわからない」。そして、次に続く否定的な意見は、「なんだか気持ち悪い」「独りよがり」「眠い」。また、肯定的な意見は、「わからないけど何か残る」「求めていた」「感じた」など。私たちにさえ、稽古をしながら、台本と向き合いながら、時々、何をしているのかわからなくなる。台詞を頭に叩き込んで指示通りに動くのが芝居ではない。そんなことは猿でもできる。お決まりのオチがつくコメディやメロドラマなど大衆に受けるテイストだけが芝居ではない。そんなものはもう見飽きた。では何をすればいいのか。わからない。しかし、わからないからこそ、私たちはただ、それぞれが自分自身と向き合い、他人と向き合い、時には心の深く寒い場所まで降りながら、人間を扱う芝居を続けている。
演劇を続けていると、思い知らされることがある。自分がとても小さく乏しい存在であるということ。思っていたより、身体は固く動かない。思っていたより、自分自身は豊かではない。貧しい自分に直面する。そして演劇の残酷さを思う。もっと効率のいい表現方法があるだろう。映画ならカメラがあり、小説なら想像力がある。しかし、舞台に立つ私たちと観客の間には何もない。私たちの貧しさは、直接観客の前にさらされる。こんなふうに自らの貧しさを知るために、演劇をやろうと思ったわけではない。
一つの作品を作り上げるために、私たちは長い時間を共にする。準備運動をし、発声、基礎練をし、本読みをし、後はひたすら稽古をする。稽古後には中華料理を食べ、酒を飲んで帰り、また次の日、同じメンバーで同じことをする。これを毎日繰り返す。長い時間をかけ、互いを知り合い、誤解し合い、探り合うことで、私たちは相手の貧しさだけではなく、同時に自分の貧しさも知る。
貧しさを知るために、演劇をやろうと思ったわけではない。しかし、貧しさを知らなければ演劇はできない。貧しさを徹底的に思い知らされた後に、その骨ばった貧しさの上に肉を盛っていくのである。その作業の中で、たまに奇跡とも呼べる場面に出会うことがある。自分の、相手の、思ってもいなかったものが出てくる瞬間。それは衝動であり力であり、自分の、相手の、奥深くにある何かである。それは危ういものではあるが、日常で気付くことのできない、人間の持つ、何かである。その瞬間、演劇が演劇になる。媒体を持たない表現方法である演劇だからこそ可能な、完璧な瞬間が存在する。そういった芝居をしたい、それが私たちの望む、私たちの在り方である。