2013年12月9日掲載
私が大学生活の中で意識してきたことは人の話を「聞くこと」です。私がこれを意識するようになったきっかけは、中学高校の6年間を過ごした立教新座中学校・高等学校と大学の環境のギャップにあります。限られた人間関係の中でそれぞれの自己主張がせめぎ合う中高一貫男子校では、アウトプットができなければやっていけません。特に私が所属していたような運動部では、自分の考えを単刀直入に伝えることがあらゆる場面で最優先され、当時の私にとってコミュニケーションとは、自分の思いを「伝えること」でした。
この調子で大学に入学した私が、今度はスポーツを見て「伝えること」に興味を持ち、体育会のスポーツ新聞部、「立教スポーツ」編集部に入部。しかしそこには自分とは全く違った環境で育ってきた人たちが集まっており、過半数は女子部員でした。当然そこでのコミュニケーションは、これまでとはまるで勝手が違います。伝えることが苦手な人もいれば、あえて黙っている人もいる。取材で他部の学生選手にインタビューを行う中でもそれは同じでした。部員として、また記者として私に求められたのは彼らの感情を引き出すこと、自分のために「伝えること」ではなく、相手のために「聞くこと」でした。コミュニケーションとは、相手に関心を持って話を「聞くこと」なのではないか。半強制的に得られたこの気付きが私の行動を変え、視野を広げ、結果的に学生生活を豊かにしてくれました。
人の話を聞くためには、まず自分が素直になって相手に心を開いてもらわなければなりません。そして素直な自分になるためには、相手の言い分を受け止める寛容さを持ち、一定の価値観に縛られないために広く素養を身に付けなければならない。「聞くこと」ができる人とは、何にでも興味を持てる人である。こう考えた私はこれまでになく、たくさんのことに挑戦しました。学業では(社会学部ということも幸いして)コミュニケーションやアイデンティティなど人間の内面を中心に扱うゼミに入ることができ、学術的な角度からもさまざまな人の考え、生き方に触れています。また、両親の勧めで教職課程も受講し、6月には教育実習で母校の教壇に立つ経験もさせていただきました。部活では、一番多くの人と接するポジションとなる編集長に立候補し、体育会本部という体育会の運営に携わる学生組織の広報責任者も務めました。
安易に得られる情報が氾濫する現代社会において、対話でこそ得られる情報の価値はますます上昇しています。これに応じて若者の対人能力低下が叫ばれる昨今、就職活動において面接官が見極めていたのはその学生がいかに人と向き合うこと、話を「聞くこと」ができるか、それが社会人としての交渉力になり得るかという点に終始していたと思います。
私のキャンパスライフには、ここでご紹介できるような華やかな実績はありません。しかしどんな相手の話にも耳を傾け、多くのことを吸収しようとしてきたことに関して、私は誇りを持っています。「伝えること」よりも「聞くこと」は難しいからです。卒業後の社会生活においても、私はこれまで以上に、人・こと・モノに興味を持ち続け、何歳になっても「聞くこと」ができる人でありたいと思っています。
雑誌『立教』第227号より