わが国が世界に誇る平安時代の名作『源氏物語』が記録の上で確認されてから千年。京都市では、京都府や宇治市の協力のもと「源氏物語千年紀」の各種事業が展開されている。
同じく京都の地に根ざし、2009年で370周年を迎える龍谷大学は、『源氏物語』に関する特色ある歴史資料を多数所蔵。そのコレクションの味わいとともに、『源氏物語』が持つ醍醐味(だいごみ)について、平安時代の文学を専門とする安藤徹准教授(文学部日本語日本文学科)に聞いた。
安藤准教授が『源氏物語』と初めてじっくり向き合ったのは、大学の卒業論文の研究対象に決めたとき。「私にとって、現代や近代の作品は距離がとりにくく対象化しにくかった。それに対し、『源氏物語』は千年も前に成立した文学。その隔たりがあるからこそ、近づきたいと思う。そうして近づいてみると、遠い世界であるはずの人物の感情までが伝わってくるような現実感に気づかされる、そこが、古典に惹(ひ)かれるゆえんです」
『源氏物語』の魅力には二つの側面があるという。一つ目は、読み手を作品の内部へと引きつけていく「求心力」。古い作品にもかかわらず、読んでいくうちに作中人物とともにその物語を生きているかのような感覚になる。同時に、作品そのものが、それ以前の物語や日記、和歌や漢詩、歴史などを貪欲(どんよく)に吸収し、引用しながらひとつの世界を作っているということもある。「その成り立ちこそが、どの時代の人々をも引きつけずにはおかない魅力となっているのではないでしょうか」
二つ目の魅力は、「遠心力」。『源氏物語』の補作を書かせたり、新しい物語を書こうとさせるような、いわば外へ外へとエネルギーを放出し、新たなものを作り出す力だ。『源氏物語』以降の物語で、この物語の影響を受けていないものはないと言われるくらい、新しい文化を生み出すための震源になっている。「これらの二面性がなぜ他の作品よりも強いのか、どのようにしてそうした力が発揮されるのかを明らかにしていきたい」。それが当面の研究テーマである。
龍谷大学の文学部日本語日本文学科は1学年約100人。その中で、安藤准教授が専門とする平安時代の古典文学を専攻する学生は例年10人程度。「この時代の魅力を伝えきれていない。教員も反省しなければいけない」と苦笑する。
しかし、ゼミに入ってくる学生たちは平安文学が好きで、研究対象として学び、その集大成としての卒業論文を書こうという熱意や意欲に充ちている。
ただ研究となると、一読者として面白いと言っているだけではいられない。「読者」と「研究者」としての視点の違いを埋められるかどうかが、卒論のテーマにまで持っていけるか否かの分かれ道。それでも、毎年2、3人が『源氏物語』に挑戦している。「あなたにしかできない『源氏物語』の研究をしなさい」と奨励していることもあり、「これまで1人として同じ視点で研究する学生はいません」。それだけ、奥が深いということか。

龍谷大学における古典研究の今後の方向性について安藤准教授は、「大宮図書館に所蔵されている貴重な書籍や各種資料の活用」を挙げる。「これこそが龍谷大学ならではの研究と言えるし、これまでの古典研究に一石を投じるくらいの可能性を持っていると思います」
また自分自身の研究の延長線上としては、異なる分野の知識や理論を応用することを考えている。古典の世界というと、どうしても固定観念を持ちがちであるが、それを打ち破り、積極的に使えるものは何でも使う。例えば、研究の補助線として社会学を使う、あるいは、同じ文学の領域でも近代や現代の文学、さらには海外の文学研究などをどんどん取り入れていく。
それで、古典文学である『源氏物語』が読めるのか、という人もいる。しかし、安藤准教授は確固たるスタンスを貫く。「一方で、古典文学といえども現代に存在し、現代の文学として読んでいます。そして、現代の我々でしか読めない事柄もあるはずです。現代ならではの異分野の情報や知識も取り入れ、それを道具にしながら作品と対話していきます」
作品を読むというのは、物語の中のモノをあれこれ発掘することではなく、対話する中で、新に何かを作り上げていくこと。「自分にとっての『源氏物語』」の発見にほかならない。そこで、「そう読んだ自分とは何だ?」という問い返し、すなわち「私はどんな存在なのか?」という疑問が生まれる。作品を読み解いていくことは、自分を問い直すことなのである。
「新しい自分の発見。それが古典研究の醍醐味」。これからも、安藤ゼミでは、自分を問い直すための研究が続く。
安藤徹(文学部日本語日本文学科准教授)
あんどう・とおる●1968年岐阜県生まれ。名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)〔名古屋大学〕。専門分野は「平安朝文学」「物語社会学」。龍谷大学文学部講師、同助教授を経て、2007年4月から龍谷大学文学部准教授。現在に至る。
三巻(巻子本)
各巻全長約338センチ・紙高32センチ
江戸時代後期・狩野探信(守道)筆
龍谷大学大宮図書館蔵
龍谷学大宮図書館が所蔵する「源氏物語絵巻」は、土佐派の絵師が描いたものと狩野派の絵師が描いたものとの2種があるが、ここに紹介する絵巻は後者のもので、江戸時代後期に描かれた巻子本三巻である。筆者は鍛冶橋狩野家七世にあたる狩野探信(名を守道という)で、父探牧の教えを受け、幕府奥絵師も務めた絵師である。一巻に五図、全十五図が描かれている。
『源氏物語』の桐壺(きりつぼ)・帚木(ははきぎ)・空蝉(うつせみ)・夕顔・若紫・末摘花(すえつむはな)・紅葉賀(もみじのが)・花宴(はなのえん)・葵(あおい)・賢木(さかき)・花散里(はなちるさと)・須磨・明石・澪標(みおつくし)・蓬生(よもぎう)の各巻の場面を描いている。すなわち『源氏物語』の前半部の各巻を描いたものである。
すやり霞(がすみ)に金箔(きんぱく)を散らし、余白をうまく使っている関係で画面が広く感じられ、開放感がある。邸内の描写は、建築物の屋根や天井を取り除いた、いわゆる「吹抜屋台」の技法が用いられており、色彩は濃彩で、繊細な描線で描かれているため、典雅で優艶(ゆうえん)な色調をたたえた画面となっている。画中の人物は伝統的な「引目鈎鼻(ひきめかぎばな)」と呼ぶ描画とは異なり、目も描き、人物の動きもあって、物語の各場面が浮かんでくるようである。