ジャーナリストを養成する国内の大学は、まだまだ数少ない。龍谷大学大学院では2008年4月、社会学研究科の社会学専攻に「ジャーナリズムコース」を開設した。このコースを先導するのは、新聞記者経験のある李相哲社会学部教授。どのような教育で、これからのジャーナリストを育てていくのかを聞いた。
私の専門は、ジャーナリズムの歴史です。その中でも植民地時代、植民地において日本の新聞やジャーナリストがどのようなことをしたのかを調べています。
担当している授業の一つに「ジャーナリズム論」があります。ジャーナリズムに影響する要素としてまずあげられるのが「人」(=ジャーナリスト)ですね。ジャーナリストがどのような記事を書くのかということが、結局ジャーナリズムの姿になります。そして、その次に影響するものが「組織」です。特に日本の場合、組織理論がジャーナリズムにかなりの影響を与えています。戦前もそうですが、今でもジャーナリストの理念や理想より、組織がどのような考えを持っているかが優先されています。さらに、社会の仕組み、日本の文化、イデオロギーなどがジャーナリズムにかかわってきます。
その中で、どの部分をなぜ勉強するのかを明確にして、ジャーナリズムとは何なのかをひも解いていきます。ジャーナリズムには、送る人と受ける人、その両者をつなぐ媒体があり、送り手と受け手が媒体を通して出あった時に、マスコミュニケーションが成立します。今まで日本のジャーナリズム教育、研究はどちらかと言うと受け手に焦点を当てる場合が多かったように思います。私たちは、送り手の問題を中心に据えて教育を展開しようと思っています。どのようなメッセージを作って、どういうふうに受け手につなぎ、どんな考えを持って取り組めばもっとジャーナリズムらしくなるのかを話していきます。

日本の新聞社やメディアは、大学にあまり期待せず、専門教育を受けていない一般の学部を出た学生を採用し、会社で育てています。韓国ではすべての大学にジャーナリズム学科のようなものがあるし、中国もメディアの90%程がジャーナリズム学科で学んだ学生を採用します。当然、欧米もそうです。ジャーナリズムのプロ教育をあまり重視しない国は、世界的に見ても日本くらいでしょう。いまのところ、日本では、大学のジャーナリズム教育にあまり期待できないからかもしれませんが、やってみる価値はあります。これからは、きちんとジャーナリズム教育を受けたプロがジャーナリズムを担う社会へとシフトしていく必要があると思います。
日本では組織が人を教育し、ジャーナリストは組織のために働くように訓練されていますので、新聞を超えた自由奔放なジャーナリストがなかなか生まれません。欧米諸国の有名なジャーナリストやコラムニストは、色々な新聞社を渡り歩きます。組織を超えて、社会に正しいメッセージを送るジャーナリストが求められているのです。
大学院社会学研究科では、職業ジャーナリストを養成する「ジャーナリズムコース」を今年4月に新設しました。現代社会の諸問題を分析し、実践的に対応できる人材を育てるのが目標です。
専門科目としては、ジャーナリズムに関する諸問題を発見してそれをいかなる方法をもって解決すべきかを学ぶ「ジャーナリズム文献研究」、ニュースの書き方やニュース価値を判断する訓練を目的とする「ライティング研究」、現場を記者と一緒に回る「調査報道実習」も計画しており、理論と実践のバランスが取れたプログラムを展開します。

では、いま、なぜ、龍谷大学でジャーナリズム教育なのか。それは龍谷大学がめざす建学の精神を意識した教育に関係しています。世界的に見ると、仏教思想や仏教研究の中心は日本にあります。日本の中でも中心となるのは京都ですね。そしてその中核を担うべきところが龍谷大学だと思うのです。つまり、これからの社会には、仏教的な感覚を持った職業人が必要だと私は考えています。
昨今の日本社会はどこか神経質で、何か問題が起こればそれを取り除くことだけに躍起になり、ジャーナリズムは根本的な問題がどこにあるのかを追求していません。仏教では自然も人間も一つにつながっていて、その中に存在すると考えます。そうした感覚を備えて物事を見ると、また違う角度から問題をとらえられるのです。
優れた職業人は感性豊かです。感性とはつまり、世の中の動きに敏感で、広い視野と哲学を持った人のことです。ジャーナリストの素質には、事件を追求する能力、書く力などが必要ですが、これらは二の次。まずその感性を磨くことが大切です。我々はそういう場を提供しようとしています。それには、我々教員がしっかりした研究をし、正しい姿勢で臨む必要がありますが。

私は、年に5回ほど外国を回ってきますが、帰国して新聞報道やテレビを見るたびに感覚のずれを感じます。メディアは枝葉的な問題にこだわり過ぎ。問題の根本的な部分は触りたがらない。例えば、「ねじれ国会」。民主主義国家の政治に牽制(けんせい)勢力があるのは当たり前のことですね。ねじれ国会のせいで仕事ができない、物事が前に進まないと、政府は言っていますが、これはねじれでも何でもありません。不思議なことにメディアも「ねじれ」が原因にあるかのように物事を報道している。
私は民主主義政治の根本は「ねじれ」にあり、政権交代が可能なところにあると思うんです。それがなかったら民主主義国家じゃない。日本では、ずっと自民党一党支配が続いて(ほんのわずかな間を除いて)いますが、一党支配を批判する輿論はあまり強くない。日本の根本的な問題はここにあるとぼくは思います。自民党が良い事をやっているか、悪い事をやっているかは、乱暴な言い方かもしれませんが小さな問題です。違う政党にやらせてみて、ダメなら変えればいい。そういう根本論を唱える論調があまりないですね。政権交代を何回か経験して初めて、明治以降の新しい日本が生まれるような気がします。
日本のジャーナリズムのもう一つの問題は大衆を意識しすぎることです。メディアが枝葉的な問題にかかわるのもここに原因があるでしょう。これはいいことかも知れません。新聞やテレビは見てくれなかったら何の意味もないですからね。なかなか難しい。問題はここにもジャーナリズムの原則よりは組織論理が働く。少数意見を言って、大衆から引き離される(読まれない、見られない)のが組織としては怖いんでしょうね。大衆があまり聞きたがらないことでも、メディアは時にはそれを言う勇気が必要です。それが正しい主張であれば、いつかは大衆もそれを認めてくれるでしょう。
※李教授が所属する社会学部はこちら
http://www.soc.ryukoku.ac.jp/