相手の顔が見えないと、やたらぞんざいになる人がいる。間違い電話をかけておきながら「失礼」の一言もなくがちゃんと切る。自分が相手に見えないから大丈夫だと思っているに違いない。パソコン通信のチャットルームでも突然割り込んできて、他人の話をひっかき回す人もいる。電子会議室での議論に茶々を入れたり、揚げ足とりをする人もいる。他人のプライバシーを公開したり、誹謗中傷の投稿や書き込みなどはもってのほかだが、相手の顔が見えない電子空間ではよく起きる。ここまでくるとマナーの問題というより、その人の人格が疑われる。
「電話で失礼。いずれお目にかかってお話しします」。よく聞く言葉である。日本人は顔と顔を合わせてコミュニケーションすることが最高の礼儀だと思っている。顔を合わせていても腹芸とか以心伝心という「妙技」が幅を利かせる社会である。言葉と言葉によるコミュニケーションは社会的地位が低いのではないか。いや、そうとしか思えない。
「拝啓、敬具」「前略、草々」手紙には手紙の伝統的作法がある。それに古色蒼然たる定型文。こうした作法をまぶすことで手紙の社会的地位を引き上げてきたのかもしれない。電子メールも同じ文章で表現するものだが、こんな作法を守っている人はほとんどいない。用件だけを手短に書くことが大事だ。むやみに長い文章を送ることは、相手に無駄な時間や通信料金、それにメモリーを消費させるからだ。長いメールは長いという理由だけで読まないと決めている人もいる。
文章になると言葉が持つ意味がストレートに伝わる。特に悪口や非難の言葉は話す時より、文章にした時の方がきつい表現になる。話し言葉ならニュアンスを出せても文章で表現することは難しい。面識のない人と電子会議室やメーリングリストでひとつの問題について議論する場合、よく誤解や行き違いが起きる。下手をすると喧嘩になったりするのはこの辺に原因がある。
日本人は討論がへただといわれる。顔を合わせて話すことが大事だと考える社会にしては確かにへたである。テレビの討論番組を見ても一向にうまくなったとは思えない。言葉の暴力を行使しているに過ぎない場面がしばしばある。日本人にとって面と向かったコミュニケーションは、サルがお互いの序列を確認するために行うマウンティングに似ているのではないか。そんな気がする。
最近、学校でもディベートを授業に取り入れるところがあるそうだが、ネットワーク社会に生きる子どもたちには、文章で議論する技術、作法も教えていただければ、と考えている。そうすればきっと住みよい情報社会が来るのではないだろうか

