文明の発達により、人類には勝ち得た健康もあれば、失った健康もある。文明と共に生きる現代人にとっては、健康に関する問題は、朝起きて仕事に出かける時からベッドで眠りに就く時まで、常に隣り合わせだと考えるべきだ。
そんな「文明と健康」の問題に、一石を投じるのが「スポーツ科学」という分野だ。現代人が知らぬ間に抱える健康問題について、早稲田大学スポーツ科学部の岡浩一朗先生にお話を伺った。

早稲田大学スポーツ科学学術院
岡浩一朗教授
研究テーマ:
子どもから高齢者までを対象にした生活習慣改善支援、特に身体活動・運動の習慣化および座りすぎ是正対策に関する研究に従事
日々の暮らし方そのものが、パンデミック
―本日はよろしくお願いします。スポーツ科学というものは、アスリートのためのものだと考えていたのですが、アスリートではない私たちにはどう関係してくるのでしょうか?(以下敬称略)
岡:アスリートを強くするのはスポーツ科学の重要な研究テーマですが、それはあくまでも一部です。スポーツ科学は介護予防や労働生産性にも大きく関わってくる分野なので、誰にとっても関係のある分野といえます。
たとえば、私がやっているのは「日本人の座りすぎを減らす」研究です。
―座りすぎを減らす?日本人はあまり立ち歩かないということでしょうか?

岡:そうです。世界20カ国を対象にした「平日に座っている時間」の調査では、日本人が座っている時間の長さは世界1位※でした。この「座りすぎ」は肥満や糖尿病、さらには死亡リスクを増加させるという研究結果が出ています。さらに、労働生産性にも影響を与えるということまで分かってきているんです。
日本人の「座りすぎ」も含め、身体活動不足(運動不足)は今や世界的な問題で、パンデミックだとすら言われています。先進国だけではなく、発展途上国でさえも身体活動不足が大きな問題だということが医学誌「ランセット」で指摘されているんです。
―活動的ではない生活スタイルが世界的な健康問題になっているんですね。対策のためには、スポーツの啓発が必要ということでしょうか?

岡:一概にそうは言えません。スポーツを趣味にしている人でも、それ以外の時間で座りすぎている場合があるんです。スポーツをしているという意識があるだけに、それ以外の時間に安心して座りっぱなしになってしまうんですね。そういう人たちを我々は“アクティブカウチポテト”と呼んでいます。
一見健康そうに見えるアクティブカウチポテトの健康リスクも、実は低くなく、意外に高いということも分かっています。そのため、「スポーツが好きだから大丈夫」と安心してしまうのは危険かもしれません。
※引用元:Bauman AE et al. The descriptive epidemiology of sitting: A 20-country comparison using the International Physical Activity Questionnaire (IPAQ). Am J Prev Med, 2011; 41: 228-235.制度や環境が、人の過ごし方を決めている
―身体活動不足を解決するためには、スポーツの啓発だけではなく、日常生活の過ごし方を変えなければならないんですね。
岡:その座りすぎな日常生活の過ごし方を、健康行動科学や行動疫学の観点からどう変えていくか、というのが私の具体的な研究です。
どれくらいの運動が必要なのか、どれくらい座りすぎなければ良いのか、というのも大きなテーマです。さらには、「どうして人はそのような行動・過ごし方をするのか」という人の心理も。環境や制度と紐付けて考えています。
―行動心理や環境まで読み解く必要があるんですね。どうしてそこまで研究するんでしょうか?

岡:「座りすぎ」というのは、人が選択した行動です。そして、環境が人の行動を変えることがあるからです。たとえば、タバコなんてわかりやすいですよね。昔は町のどこでも吸えたのに、吸える場所を限定するとタバコを吸う人は減る。こうやって、制度的・物理的な環境が人の行動を変えるんです。
それに似た話で、現代は家事のための技術が発達している。昔は人がしゃがんで行っていた掃き掃除や拭き掃除はロボットがやるようになり、洗濯機も今はボタンを押せば乾燥まで放っておくだけです。
アクティビティとなっていた生活環境が変わって、寝転んだり座ったりという座位行動がどんどん増えて、今やデスクワークに従事する人は生活の70~75%は座っていると考えられます。生活環境がこうなったのはまだ最近のことなので、それが将来どんなリスクになるのかはまだ十分に分かっていないんです。
スポーツ科学は、オフィスデザインをも変える

―たしかに、私も平日は座ってばかりです。オフィスではデスクワーク、家ではちょっとした家事をしてから、リラックスして眠るだけなので。日常生活で長時間立つということはあまりないですね。
岡:私がいま、日常生活の座りすぎを改善するために提唱しているのは“働けば働くほど元気になるオフィス”です。座って行うデスクワークが「座りすぎ」の原因となっているため、働いても身体活動不足にならない「アクティブワーク」を推奨していますし、そんな会社が増えています。立って仕事をすることもできるオフィス環境ですね。

私の研究室でも、「高さ調整ができる机」を導入しています。立った時に仕事がしやすい高さにも、座った時に仕事がしやすい高さにもワンタッチで変えられるんです。
オフィスのデザインには、これからどんどんアクティブワークが提案されていくと思います。たとえば、机の他にも、立った時・座った時にそれぞれ適切な照度になる照明や、適切な温度になる空調制御とか。
国民を健康にするために必要なのは、「普及の科学」
―「働き方」は今、社会全体で注目を浴びている話題です。スポーツ科学は働き方にもアプローチするんですね。

岡:昨今の「健康経営」や「働き方改革」においては、「座りすぎ」解消が最優先課題だと考えています。一般的には、スポーツ科学らしくない話かもしれないけれど、早稲田のスポーツ科学は、そんなところまでカバーしていきたいと思っています。 オフィスデザインの領域も同じことですが、国民への健康に関する訴求方法も大切だと考えています。きっと、研究だけしていても国民の健康状態は良くならない。普及の科学が必要なんです。
スポーツ科学によって分かった正しい健康知識を、どうやって国民に届けるか?というヘルスコミュニケーションも、スポーツ科学のテーマのひとつです。我々はそのために、新聞・テレビ・インターネットなどのマスメディア分析も重要な研究テーマとしています。
町づくりの中で目指す、アクティブで健康な社会作り
―マーケティングというか、商学部で行う研究のような領域も、スポーツ科学のテーマなんですね。
岡: スポーツ科学はとても幅広い学問で、私は内閣府が推進している地方創生、特に「生涯活躍のまち(日本版CCRC)」の仕事にも関わっています。日本全国で消滅可能性都市や限界集落が増え、医療介護不足の危惧がある中、要介護になる前の高齢者が、希望に応じ地方や「まちなか」に移り住み、地域住民や多世代と交流しながら健康でアクティブな生活を送り、必要に応じて医療・介護を受けることができるよう支援するというプロジェクトです。
私たちスポーツ科学学術院は、その町で健康作りや運動を促進するという、ノウハウを活かせる包括協定を結んでいるんです。
―先ほどおっしゃっていた、「環境が人の行動を変える」というお話と同じですね。

岡:町づくりには、スポーツ科学の知見が活かせます。ヘルスツーリズムやスポーツツーリズムも、町づくりや町おこしには密接に関わっています。
町をはじめとした、環境が変われば、人の行動も変わる。そうなると、健康に関する常識も変わります。私は、人の行動の成り立ちとか、なぜ人はそんな行動をするんだろうとか、そういった「人の行動」に魅せられて、研究しています。
―オフィスデザイン、マーケティング、町づくり、そして「人の行動」という根源的な部分まで、スポーツ科学はとても広い分野と関わっているんですね。
岡:スポーツ科学は様々な領域と混じり合って、これからも発展していくでしょう。まだまだ出来ることの余地がたくさんあると思います。
―お話を聞く前後で、スポーツ科学に対する認識が180度変わりました。本日は、ありがとうございました。
Sports-related Subjects(スポーツ関連分野)で、国内1位※『Waseda Ocean構想』

早稲田大学はWaseda Ocean構想という目的を掲げ、地球規模の課題解決や、世界的な研究拠点となるための取り組みを行っている。
スポーツ関連分野ランキングで世界19位、国内1位である早稲田大学で、スポーツ科学部は大きな役割を果たしている。
多様な分野と混じり合う早稲田大学のスポーツ科学は、Waseda Ocean構想でさらに世界の研究者や、課題と混じり合い、進化のスピードを上げていくだろう。
※英国の教育関連事業者「クアクアレリ・シモンズ社(Quacquarelli Symonds)」が世界中の大学を評価し、46研究分野を対象として発表した「QS World University Rankings by Subjects 2017」