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#51 未来は、自分で作るものだと思う。presented by オリックス グループ#51=未来は、自分で作るものだと思う。presented by オリックス グループ

イチローが見せてくれる、未来への景色

また新たな偉業を成し遂げたイチロー選手。それは彼にとって、通過点にすぎないのかもしれない。けれども、一つ一つのヒットやプレーの積み重ねが、今までに見たことのないような景色を私たちに見せてくれたことは確かだ。

たとえ「前例がない」と言われても、どうしたらできるかを最後まで考え抜き、新しい答えを生み出そうとする姿勢。信念を貫き続けるイチロー選手の姿は、多くの人の共感を常に集めてきた。そして、彼と同じ時代を生きる喜びを与えてきた。

イチロー選手は、自分自身の未来には何が必要だと信じ、どのような挑戦を続けてきたのだろうか。彼と共に時代を歩んできた人々や元チームメートの証言から振り返る。

オリックス・ブルーウェーブ時代のチームメートが感服した意識の高さ

「イチロー」が生まれたのは1994年。オリックス・ブルーウェーブ(当時)の仰木彬監督が、入団3年目の野手だった鈴木一朗の登録名をカタカナに変更させたことは、よく知られている。非凡な才能を既に見せつつあった20歳の青年は、仰木監督の抜てきで1番スタメンに定着するや、シーズン最多安打など当時のプロ野球記録を次々と塗り替えていった。
 翌年にリーグ優勝、その次の年は日本一となって仰木監督を胴上げしたチームの大きな原動力は、3年連続でシーズン最優秀選手に輝いたイチローだった。二人の師弟関係はイチローが渡米後も続き、お互いの滞在先を度々訪れていた。2005年12月、仰木氏は亡くなる前に、約束していたイチローとの再会を楽しみにしていたという。

 若手時代のイチローと1、2番でコンビを組んだのが、現在のオリックス・バファローズを指揮する福良淳一監督だった。イチローが尊敬する先輩の一人で、「福良さんのように、試合で必要とされる選手になりたい」と語ったというエピソードが伝えられている。
 そんな福良監督にとって、自分の前を打つリードオフマンの存在は驚異的だった。「打席に入った時は、常にイチローがどこかの塁にいるような感覚でした。200安打というのは、当時日本で誰も打ったことがなかったし、本当にすごい」と語る。
 特に目を見張ったのが、徹底的に自己を管理し、万全すぎるほどの準備をして試合に臨む姿勢だ。「試合前というよりも、試合の終わった後から準備が始まっていました。彼は一番最後まで残って、道具の手入れをやっていた。そういうところが次の日の試合の準備へとつながっていたと思う」と述懐する。自身のバッティングに納得がいかない時に、日付が変わるまでマシンを相手に練習をする姿もよく目にしていた。

 「打つ打たないよりも、試合を欠場せざるを得ないようなけがをしないこと。そうならないように、入念にストレッチをしたり、自分に合った準備を彼は日々しっかり行っている」と、今でも感心させられることが多い。

 「ランナーがスコアリングポジションにいる時、後ろを振り返ると、イチローは肩を回すなどしていて、常に準備を怠っていなかった。彼が外野を守っているのは心強かったし、チームメートとしていろんな面で助けてもらいました」
 マウンドでの記憶を語るバファローズの星野伸之・投手コーチは、イチローがオリックス在籍当時のエース。1999年には、共に米国での春季キャンプに参加した。その時の経験がきっかけとなり、イチローは翌年、挑戦を宣言することになる。
 「将来や目標について深い話をしたということは特にありませんが、当時からとにかく自分のスタイルを持っていましたね。隙がないなと感じさせる選手でした」
 イチローが記録を更新し続けられる理由。それは日々の練習にあると、選手を指導する立場になって感じている。「過去の自分に戻っていいと言われても、私にはイチローのような練習はできません。それ以外は何でしょうね? そう思わせるところも、彼がずっと活躍できる理由かもしれませんね」

95年 オリックス・ブルーウェーブ優勝会見にて

オリックス・ブルーウェーブ時代のチームメートが感服した意識の高さ

「イチロー」が生まれたのは1994年。オリックス・ブルーウェーブ(当時)の仰木彬監督が、入団3年目の野手だった鈴木一朗の登録名をカタカナに変更させたことは、よく知られている。非凡な才能を既に見せつつあった20歳の青年は、仰木監督の抜てきで1番スタメンに定着するや、シーズン最多安打など当時のプロ野球記録を次々と塗り替えていった。
 翌年にリーグ優勝、その次の年は日本一となって仰木監督を胴上げしたチームの大きな原動力は、3年連続でシーズン最優秀選手に輝いたイチローだった。二人の師弟関係はイチローが渡米後も続き、お互いの滞在先を度々訪れていた。2005年12月、仰木氏は亡くなる前に、約束していたイチローとの再会を楽しみにしていたという。

 若手時代のイチローと1、2番でコンビを組んだのが、現在のオリックス・バファローズを指揮する福良淳一監督だった。イチローが尊敬する先輩の一人で、「福良さんのように、試合で必要とされる選手になりたい」と語ったというエピソードが伝えられている。
 そんな福良監督にとって、自分の前を打つリードオフマンの存在は驚異的だった。「打席に入った時は、常にイチローがどこかの塁にいるような感覚でした。200安打というのは、当時日本で誰も打ったことがなかったし、本当にすごい」と語る。
 特に目を見張ったのが、徹底的に自己を管理し、万全すぎるほどの準備をして試合に臨む姿勢だ。「試合前というよりも、試合の終わった後から準備が始まっていました。彼は一番最後まで残って、道具の手入れをやっていた。そういうところが次の日の試合の準備へとつながっていたと思う」と述懐する。自身のバッティングに納得がいかない時に、日付が変わるまでマシンを相手に練習をする姿もよく目にしていた。

95年 オリックス・ブルーウェーブ優勝会見にて

 「打つ打たないよりも、試合を欠場せざるを得ないようなけがをしないこと。そうならないように、入念にストレッチをしたり、自分に合った準備を彼は日々しっかり行っている」と、今でも感心させられることが多い。

 「ランナーがスコアリングポジションにいる時、後ろを振り返ると、イチローは肩を回すなどしていて、常に準備を怠っていなかった。彼が外野を守っているのは心強かったし、チームメートとしていろんな面で助けてもらいました」
 マウンドでの記憶を語るバファローズの星野伸之・投手コーチは、イチローがオリックス在籍当時のエース。1999年には、共に米国での春季キャンプに参加した。その時の経験がきっかけとなり、イチローは翌年、挑戦を宣言することになる。
 「将来や目標について深い話をしたということは特にありませんが、当時からとにかく自分のスタイルを持っていましたね。隙がないなと感じさせる選手でした」
 イチローが記録を更新し続けられる理由。それは日々の練習にあると、選手を指導する立場になって感じている。「過去の自分に戻っていいと言われても、私にはイチローのような練習はできません。それ以外は何でしょうね? そう思わせるところも、彼がずっと活躍できる理由かもしれませんね」

少年はプロを見据えて努力を続けた

 「目標は甲子園ではありません。プロ野球の選手にしてください」
 真っすぐな目で語る中学生のイチローを、愛知工業大学名電高等学校の野球部監督だった中村豪さん(74)は、今でも覚えている。「愛知県では他の強豪校も選択肢がある中で、厳しい寮生活を経験できるというのも、名電を選んだ理由の一つでは」と話す。
 印象に残っているのは、深夜にグラウンドで黙々と素振りをしている姿だ。「みんなと同じようにやるのが苦手で、一人になると集中して練習するタイプ。自分自身で判断し、行動していた」と振り返る。与えられた練習だけでは満足せず、自身で道を切り開いていった教え子には、学ばされたことも多いという。
 今シーズンのイチローをテレビで観戦して、「42歳にもなれば、体力も衰えてくるはずだけど、むしろ上昇気流にある感じがする。どうやってコンディションを維持しているのか、そこにあの子のすごさがあります」と、中村さんは驚嘆を隠せない。その理由について聞かれると「やっぱり好きなんでしょうね、野球が」と語った。
 どこまで記録は伸びるのか。恩師は「前人未到の挑戦なので、やれるだけやってもらいたい。私ももう74になりますので、活躍がこれからの励みになります」と期待を寄せる。オリックス・ブルーウェーブ時代の年間最多安打を記念して中村さんが自ら製作した銅像と共に、その活躍を見守っている。

 少年時代を過ごした愛知県豊山町。バッティングセンター「空港バッティング」の8番ボックスには、イチローの写真が飾られている。小学校時代から中学校卒業まで通い続け、この指定席で毎日のように120キロの速球を100球以上打ち続けた。

 「かなり細い子でしたので、将来にこんな記録を残すとは想像できなかった。ただ、バットの芯でボールを捉えることに関しては、優れたセンスがありました。今でもひざ元ぐらいの球をよくジャストミートしていますが、その頃から常に低いボールを練習していました」
 オーナーの前田岩夫さん(76)は、当時を思い出す。ネット裏には必ず、厳しく指導する父親の姿があった。学生の試合で使用される金属バットではなく、プロが使う木製バットで打つことにこだわっていた。
 今日も多くの野球少年たちが、マシンを相手にバットを振っている。「空港バッティング」で育ったイチローや稲葉篤紀(元日本ハム)は、彼らにとって憧れの存在だ。「今の子は上手に打つ。完成されたスイングの子もいますよ。どこまで伸びていけるのか、わからないですけどね」と前田さんは目を細める。
 子どもたちが進んでいく未来。その先を照らすかのように、イチローはヒットを打ち続ける。

少年はプロを見据えて努力を続けた

 「目標は甲子園ではありません。プロ野球の選手にしてください」
 真っすぐな目で語る中学生のイチローを、愛知工業大学名電高等学校の野球部監督だった中村豪さん(74)は、今でも覚えている。「愛知県では他の強豪校も選択肢がある中で、厳しい寮生活を経験できるというのも、名電を選んだ理由の一つでは」と話す。
 印象に残っているのは、深夜にグラウンドで黙々と素振りをしている姿だ。「みんなと同じようにやるのが苦手で、一人になると集中して練習するタイプ。自分自身で判断し、行動していた」と振り返る。与えられた練習だけでは満足せず、自身で道を切り開いていった教え子には、学ばされたことも多いという。
 今シーズンのイチローをテレビで観戦して、「42歳にもなれば、体力も衰えてくるはずだけど、むしろ上昇気流にある感じがする。どうやってコンディションを維持しているのか、そこにあの子のすごさがあります」と、中村さんは驚嘆を隠せない。その理由について聞かれると「やっぱり好きなんでしょうね、野球が」と語った。
 どこまで記録は伸びるのか。恩師は「前人未到の挑戦なので、やれるだけやってもらいたい。私ももう74になりますので、活躍がこれからの励みになります」と期待を寄せる。オリックス・ブルーウェーブ時代の年間最多安打を記念して中村さんが自ら製作した銅像と共に、その活躍を見守っている。

 少年時代を過ごした愛知県豊山町。バッティングセンター「空港バッティング」の8番ボックスには、イチローの写真が飾られている。小学校時代から中学校卒業まで通い続け、この指定席で毎日のように120キロの速球を100球以上打ち続けた。

 「かなり細い子でしたので、将来にこんな記録を残すとは想像できなかった。ただ、バットの芯でボールを捉えることに関しては、優れたセンスがありました。今でもひざ元ぐらいの球をよくジャストミートしていますが、その頃から常に低いボールを練習していました」
 オーナーの前田岩夫さん(76)は、当時を思い出す。ネット裏には必ず、厳しく指導する父親の姿があった。学生の試合で使用される金属バットではなく、プロが使う木製バットで打つことにこだわっていた。
 今日も多くの野球少年たちが、マシンを相手にバットを振っている。「空港バッティング」で育ったイチローや稲葉篤紀(元日本ハム)は、彼らにとって憧れの存在だ。「今の子は上手に打つ。完成されたスイングの子もいますよ。どこまで伸びていけるのか、わからないですけどね」と前田さんは目を細める。
 子どもたちが進んでいく未来。その先を照らすかのように、イチローはヒットを打ち続ける。

#51 まだ見ぬ未来を、おもしろく。

見たことのない景色を、出会ったことのない驚きを、より多くの方々にお届けするために。私たちオリックスグループも、未来に向けて、新しい挑戦を続けていきます。

オリックスグループ