朝日新聞デジタル
Life Shift Story 生きていく家
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Life Shift Story 生きていく家 作:大平一枝 ともに成長する家族と家を描く、4つのライフストーリー。人と住まいは、こんなにも幸福な関係を築くことができる。

密やかなバトン

あの小説家を好きになったのは、たぶん父の影響だ。
陰影の多い古い木造家屋。
階段を上がりきった所に小さな本棚があり、
両親の読みかけの本や雑誌がいつも無造作に差し込まれていた。

昇り降りしながら、
僕はアメリカやイギリスの小説家をそこで覚えた。
次第に、哲学書や啓蒙書が増えていったから、
もしかしたら意図的に置いていたのかもしれない。

今思えば、あれは教養のバトンリレーだった。
同時に、仕事に忙しい父と母が今、
何に興味を持っているかを覗き見する密やかな楽しみもあった。
活字の伝言は、少しずつ心に降り積もり、
今、僕の血肉になっている。

親になった。家を建てたら、階段脇に本棚が欲しい。
子どもたちがいつかあの小説を読み継いでくれるように。
家族の成長とともに代謝し、変遷する。そんな生きた本棚を。

心の庭

ある禅僧がこう語っていた。
「庭がなくとも、障子越しに畳に映る日ざしがゆらゆらと揺れる。
ああ、揺れているなあとほっとする。
それが心の庭です。どなたの心にもある」。

僕の家にも、ささやかな心の庭がある。カフェみたいでしょと、
妻が買ってきたウンベラータという鉢植えだ。
明るいグリーンの大きな葉が、午後の木漏れ日越しに影を作る。
風に葉が揺れ、季節の移ろいに合わせ、緑の濃淡を変える。
寒い冬、光が足りないと落葉してしまうこともある。
春が来ると、3センチ、いや5センチ伸びたと
子どもたちが定規を持ち出す。
幹の節目で生長がわかるのだ。たとえいつか枯れたとしても、
人の力の及ばぬものの存在を
そばで感じられる暮らしはかけがえがない。

色、香り、葉がすれの音。五感を通して、
心の庭は安らぎをつむぐ。

「好き」は変わる

20代のころ、あれほど聴いていた音楽を
最近聴かなくなった。
逆に、30代のころわからなかった絵を
40代になって理解できるようになった。
好きなもの、信じていること、価値観、ライフスタイル。
それらは、知恵や経験を重ねるごとに変化していいものだし
そうなるべきもの、と僕は思う。
だが、日々暮らしていると、そんなあたりまえのことを
つい忘れそうになる。たとえば夫婦であっても
彼女はこう、なんて決めつけてしまったり……。

会社勤めの妻が、中断していた心理学の勉強を
再開して少し驚いた。そう、人は変化するものと
そのとき僕はあらためて思い出したのである。
彼女はいつか複数の仕事を持つことになるのだろうか──。
それもまた悪くない、と思えるやわらかな自分でいたい。

時の妙味

結婚して最初に買った家具は
北欧の無垢材のキャビネットだ。
若い僕らは随分無理をして手に入れた。
以来何度かの引っ越しと子どもたちの誕生、
ついでに、垂れ耳がかわいい同居人も増えたので
幾つもの傷が増え、色はいつしか
淡いベージュから深い琥珀に変化していた。
だが僕は、買いたてのころより、今のほうがずっと好きだ。
買ったその日が美のピークではなく
買った日から味わいを増す素材の魅力を
このキャビネットから学んだ。
木、石、土、鉄、革。自然界から生まれた素材は
必ず時間とともに表情を変える。
それは、「劣化」ではない。
味わいの美しい「進化」であり、
過去から未来への贅沢な贈り物である。

作:大平一枝

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大平一枝 Ohdaira Kazue

おおだいら・かずえ/ライター、エッセイスト。長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観、人のつながりをテーマに、女性誌、書籍、各誌紙に執筆。住まいや暮らしに独自のスタイルを持つ人物ルポ、手仕事・暮らしにまつわるエッセイを多く手がける。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『ジャンク・スタイル』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『世界でたったひとつのわが家』(講談社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。朝日新聞デジタルのウェブマガジン「&w」で連載中の、市井の人々の暮らしと機微を台所から切り取った『東京の台所』は、多くの人に支持され6年目を迎えた。

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