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吉田は徹底した一流好みだった。たとえば、スーツは、英国の老舗ヘンリー・プールで仕立てた特別誂え。車はロールス・ロイスのスーパー・スポーツサルーン。

酒はウイスキー党で、もっぱらオールドパーを愛飲した。

  • 一流を好む男、吉田茂に愛されたウイスキーとは

  • 土佐高知で明治七年(1874)から営業を続ける旅宿「城西館」に、一本のウイスキーボトルが残されている。茶褐色のずんぐりした重量感のある形状に、陶器のひび割れを模した網目模様。口金は針金で締める旧式で、ラベルは古びて褪色している。側面に貼り付けられたメモ書きの文字は、「思出深い 吉田先生 御使用の残りそのまゝ」。実はこれ、名宰相・吉田茂が残した高級スコッチウイスキー、オールドパーのボトルなのである。

  • 吉田は徹底した一流好みだった。たとえば和装のとき、袖を通すは西陣の正絹のお召し、袴は仙台平、帯は米沢ものか西陣ものの角帯、足元は白足袋で決めた。スーツは、英国の老舗ヘンリー・プールで仕立てた特別誂え。車はロールス・ロイスのスーパー・スポーツサルーン。葉巻はハバナ産のコロナ・コロナかヘンリークレー。その葉巻に火をつけるにも、英国から取り寄せたブライアント・アンド・メイのマッチを使うという入念ぶり。落語は志ん生、山なら富士。酒はウイスキー党で、もっぱらオールドパーを愛飲した。選挙戦などで地方へ赴く際も、秘書が必ずそのボトルを携行したという。好みの飲み方はオンザロック。氷を落とし入れたロックグラスに、自らボトルを掴んでとくとくと注いだ。

  • 実父は幕末維新の土佐の志士で、戦前の帝国議会の衆議院議員もつとめた竹内綱。板垣退助が遊説先で暴漢に刺され「板垣死すとも、自由は死せず」という歴史的名台詞を口にしたとき、その側にあって血まみれのシャツを短刀で切り裂いて傷口を確かめ、「傷は浅い、大丈夫だ」と励ましたのが、この竹内綱だった。

  • 吉田自身は東京は神田の生まれ。生後まもなく、横浜で貿易商を営む吉田家に養子に出された。竹内綱の親友だったという養父は、不動産や新聞などさまざまな事業に手を広げて成功をおさめ一代にして財を築いたが、四十歳で急逝。まだ十一歳の吉田茂が、大磯の宏壮な邸宅と現在の金額にして数十億円ともいわれる莫大な遺産を受け継いだ。これを消費しつくす中で身につく趣味が、一流でないはずはなかった。その後、外交官として英国暮らしが長かったことが、スコッチ好きに磨きをかけた。

  • そんな吉田が内閣総理大臣に就任したのは、昭和二十一年(1946)五月のこと。戦後の混乱期ということもあり、国会議員に選出される以前に、自由党総裁に迎えられることで首相の座についた。翌年、総選挙に出馬するに当たって、実父の郷里ということで選挙区を高知とした。「城西館」が吉田の定宿となったのは、この頃からだ。

  • 馴染みのある神奈川県から出馬したらどうかと勧める声もあったが、「遠い方が選挙民がしょっちゅう訪ねてくることもなく、無愛想が目立たなくていい」という知友の忠告があり、本人もこれに従った。実際、選挙運動中の演説でも、吉田は愛想なし。地元への利益誘導など頭の片隅にもないから、それを匂わせるような甘言も一切口にしない。あるとき、高知市内でコートを着たままぶっきらぼうに演説をしていると、「外套をとれ」という野次まで飛んだ。そのとき吉田は少しも慌てず、「外套を着てやるから街頭演説です」。

  • 『父 吉田 茂』 麻生和子著 新潮文庫刊
    戦争に負けて、外交に勝った歴史がある――。敗戦後、吉田茂は口癖のようにそう語った。そして、戦後歴代2位の在任期間を誇る稀代の指導者となった。官僚、政治家、父親。全ての吉田茂に最も近くで接した娘が語る「ワンマン宰相」の素顔。

  • この機知には聴衆が拍手喝采。かえって吉田の人気が上がったというから、気骨を重んじる「土佐のいごっそう」とは案外と相性がよかったのかもしれない。

  • 吉田は、辛辣なるユーモリストとしても有名だった。大正五年(1916)寺内正毅内閣が発足したとき、首相の寺内が旧知の吉田をつかまえ、「どうじゃ、総理大臣の秘書官をやらんか」と水を向けたことがある。すると吉田は、やんわりした調子で断った。

  • 「総理大臣ならつとまるかもしれませんが、秘書官はとてもつとまりそうもありません」

  • また、晩年のあるとき訪問客から「お顔の色がたいへんいいようですが、何を召し上がっていらっしゃるのですか」と問われると、言下に「人を食ってます」という食えない返答をした。シニカルな毒気を含んでいるのも、英国仕込みだったろう。しかも、その毒気の奥底に温かな人情味をひそめていて、周囲にいる人たちを魅了した。

  • 吉田には「ワンマン宰相」の異名があった。出どころは日本のマスコミや政界ではなく、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の民生局だった。彼らには、「政府は吉田ひとりで、あとはとるに足らぬ存在」といった認識があったらしい。事実、吉田は泣く子も黙るマッカーサーを向こうに回しても、粘り強く渡り合った。趣味の面でさえ安易な妥協はしない。パイプ党のマッカーサーがちょっと高飛車な態度で葉巻を勧めても、「それはマニラ産でしょう。私はハバナのもの以外は吸いません」とぴしゃりとはねつけた。

  • それだけの強いリーダーシップを発揮しながら、吉田は戦後日本の復興に尽力した。政務に疲れた心身をときほぐし、あるいは独りじっくりと次の課題に向き合い沈思するときにも、愛飲のスコッチは恰好の道連れとなっただろう。熟成の時に育まれたこの飲み物は、飲み手にその用意があればいつも特別な時間軸を提供してくれるのだ。

  • もちろん、いくらワンマンでも、ひとりですべてをこなせるわけではない。政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築き政策を推し進めるため、吉田は官僚出身で実務能力の高い国会議員を門下として育てた。いわゆる吉田学校である。時には、この「学校」の生徒たちとも、吉田はグラスを傾ける機会があった。そのオールドパーの洗礼を経て、ウイスキーを好むようになった生徒も少なくない。日本の高度成長を牽引する重要な政策も、車座のウイスキーから醸成されるようにして立案されることがあったと伝えられる。大磯に閑居してのちも、吉田の影響力は絶大で、その声望を慕い面談を欲する後進はあとを絶たなかった。いざ面談となって吉田のお眼鏡にかなうと、会話のあとにはきまってオールドパーがふるまわれるのだった。

  • 顧みればこの酒は、近代国家の幕開けとなった明治の開化期にわが国に到来し、国の舵取りを担う者たちの傍らに置かれていた。その重要な舞台のひとつが、東京・築地にある老舗料亭。初代内閣総理大臣の伊藤博文が贔屓にした。料理やサービスの格式の高さに加え、女将はじめ従業員一同の物腰が堅実で、会話の中身が絶対に外にもれないという安心感が信頼を呼び、以降、この店で多くの会合が持たれた。

一流を好む男、吉田茂に愛されたウイスキーとは
多くの文化人からも愛された琥珀色に輝く液体
oldparr.jp
MHD モエヘネシーディアジオ株式会社

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