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「明治期に世界を駆け抜けた、井上円了の軌跡と思想」

 航空機など姿形もなく、鉄道もろくに 整備されていなかった明治時代に、何と 3度も世界を旅行した日本人がいた。東 洋大学を創立した井上円了である。最初 は明治21(1888)年、30歳の時に太平 洋を横断してアメリカからヨーロッパ、 エジプトなどを1年がかりで視察。パリ ではエッフェル塔の建設で話題になった 世界万国博覧会も見学している。
 2回目は明治35(1902)年で円了は 44歳。1回目とは逆に西回りでインドを 経てヨーロッパ、アメリカ、カナダなど を8か月間。3回目は明治44(1911) 年。53歳になっていたが、北はノールカッ プ岬、南はホーン岬(マゼラン海峡)と南 北2つの極地に達する、途方もない地球 規模の大旅行となった。
 円了はこうして得た世界の見聞などを 国内の民衆に向けて講演しており、地方 都市、農山村や漁村をくまなく行脚。そ の講演は約5400回、集まった聴衆は 合計で140万人にものぼる。明治期の 希代な「国際人」といえるのだが、円了の 知の世界もまた破格の広さと深さを持っ ていた。

「余資なく優暇なき者」に教育を開放する学校

 円了は安成5(1858)年に長岡藩 浦村の寺(浄土真宗)の長男として生まれ た。漢学と英語を学び、16歳で旧長岡洋学校に 進学。そこで英才を発揮したため、20歳の時に東本願寺から誕生したばかりの帝 国大学(東京大学)入学の指示を受ける。 教師はお雇い外国人で、掲示板も学生の 会話も英語という予備門で優秀な成績を 修めたが、進学したのは文学部哲学科。 入学者は円了ただ1人だった。高級官僚 も目指せたが、真理探究の道を選んだの である。やがて円了は西洋哲学も仏教も同じ真理を語っていることを理解する。 これが円了の哲学の大きさであり、深さ にもつながるのである。
 明治20(1887年)年には29歳という 若さで東洋大学の前身、私立哲学館を創 立。その趣旨には「余資なく優暇なき者」 に教育の機会を開放とある。経済的な 余裕や学ぶ時間が取れない人々に、哲学することを教える学校として発足したの だ。半年後には『哲学館講義録』 を出版して通信教育も実施している。夜 間部を廃止した都心の大学が目立つが、 東洋大学がイブニングコースと通信教育 課程を堅持してきたのは、この趣旨を忠 実に継承しているからである。

グローバル社会だからこそ「諸学の基礎は哲学にあり」

 この私立哲学館は「諸学の基礎は哲学 にあり」を教育理念としていた。哲学者 の育成ではなく、常識や先入観にとらわ れず、物事の本質に迫って深く考えよと いうことだ。つまりは「哲学すること」を 身に付けることが主眼なのである。予測 不可能なグローバル社会でも通用する、 応用可能な知性とも言い換えられるだろ う。
 円了は「妖怪学」でも知られており、 「こっくりさん」などを科学で丁寧に解明 した。いわば民衆の精神の近代化に尽力 したといえる。その上で、人間にはまだ 分からない不思議もきちんと認めたこと も円了の思想の大きさだ。
 今年は哲学館が創立されて125周 年。奇しくも明治期と同じく国際化の荒 波が日本を翻弄しているが、円了は紛れ もなく「国際人」の先達だった。この偉大 な創立者の軌跡と思想を踏まえて、東洋 大学はより強靭に世界を生き抜く真のグ ローバル人材育成を目指している。

【「四聖」を祭った哲学堂公園】
 東京・中野区にある哲学堂公園は 区民の憩いの場として利用されてい るが、井上円了が明治35(1902) 年に哲学館大学の用地として購入し た土地だ。「四聖堂」が最初の建造物 であり、円了が最も影響を受けた釈 迦、孔子、ソクラテス、カントが祭 られている。
 だが、明治39年(1906)年に円 了は学校を隠退。大学は移転しなかっ たが、円了の活動拠点となり、全国 各地の巡講の御礼などによって様々 な建物が作られていった。