グローバル化で問われる「哲学」
東洋大学は、明治20(1887)年に「私立哲学館」として井上円了博士により創立された、125年の伝統を持つ総合大学です。円了は、開国から近代化へと激動する時代にあって、人々が「自分なりのものの見方、考え方を持ち、自分なりの哲学を持って行動すること」が近代国家の発展に不可欠であると考え、哲学の普及を実践しました。
ここでいう「哲学」とは、ギリシャを起源とする知的活動の基本にある「智慧を愛し求める(philosophy)」思想のことであり、円了はその普及に向けて日本全国を巡り、多様な人々に学習の門戸を開いていきました。
哲学を建学の理念とする唯一の私立大学・東洋大学は、総合大学として日々進化を遂げながらも、すべての学びのはじまりであり、生きる力の原点でもあるこの理念を守り続けて、今日に至ります。
グローバル化が進展し、多様な価値観が混在する今、本質を理解する「哲学」の重要性がさらに増しています。「国際化」「キャリア教育」そしてその基盤となる「哲学教育」の3つを教育の柱とし、時代や環境の変化に流 されることなく、地球規模の視点から物事を捉え、自分の未来を切り拓くことのできる「グローバル人材」を育成していきます。
円了の思想
安政5(1858)年に、長岡藩(新潟県)浦村の真宗寺院の長男として生まれた井上円了博士が、国際化を意識し始めたのは、10歳になった明治維新の年でした。23歳の若き西洋医だった石黒忠悳の塾に通い、「万事、西洋風」だった石黒から大きな影響を受けたといいます。その後、円了は寺を学校とする塾で、午前は本格的な漢学、午後は英語を習い、福沢諭吉の『西洋事情』を独習するなど学びを深め、来るべき文明開化・国際化の世を強く意識するようになりました。明治7年、16歳になった円了は、当時めずらしかった洋学校へ進学。英語で世界の歴史や地理などを学び、洋算(数学)の教育も受けました。
転機が訪れたのは明治11年。英才を見込まれた円了は、東本願寺から「東京へ留学せよ」との指示を受け、前年に設立されたばかりの東京大学へ。文学部哲学科へ進み、「哲学」を本格的に学ぶと共に、お雇い外国人教師から、当時の世界の最先端の知識を体系的に学び、国際人としての教養を身につけました。東京大学を首席で卒業した円了は、宇宙や世界と人間との関係を究明してきた「哲学」こそが「諸学の基礎」であり、国際化する日本に必要なものと考え、明治20年、東洋大学の前身となる「私立哲学館」を創立しました。翌21年、欧米の先進諸国を自らの足で巡った円了は、「日本にいて世界を想像していたが、実際の世界は多いに異なる」と痛感。そのときもたらされた「世界から日本を、日本から世界をみるという複眼的視点が、哲学館の新校舎の建設へとつながっていきました。
明治35年、44歳で2回目の世界旅行に出かけた円了は、イギリスの農村での2ヵ月間にわたる調査で、言論の自由や社会倫理の高さを体験。帰国後、哲学館を専門学校令によって東洋大学としましたが、しばらくして発病したこともあり、大学からは引退しました。一教育者となった後も円了は、全国各地を巡回して講演し、広く民衆に社会教育(生涯学習)の必要性を訴えるなど精力的に活動しました。明治44年、53歳のときには3回目の世界旅行に出かけ、3回合わせて
5大陸と北極・南極を周遊するという快挙を達成しました。大正8(1919)年、中国の大連で講演中に倒れた円了は客死しましたが、その事実は国内はもとより、AP電で世界に発信されました。
(井上円了記念学術センター 三浦節夫氏の論考より抜粋)