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割れた腹筋は本当に必要ですか? 文化人類学者が説く科学との付き合い方

  • 2017年7月14日

国際医療福祉大学大学院講師の磯野真穂さん

 人に“メタボ大丈夫?”といわれて自信を無くし、SNS(ソーシャルネットワークサービス)を見て屈強な誰かのカラダに憧れ、厳しい糖質制限食やダイエットに精を出す――私たちの身体(からだ)や健康は、いつの間にここまで社会的な規範に縛られるようになったのだろう? 「そんなに気にすることはないですよ」と優しく語るのは、文化人類学者の磯野真穂さん。『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』や、この6月に発売された新刊『医療者が語る答えなき世界 「いのちの守り人」の人類学』といった著作で「科学が語ることができないもの」について新たな視点を示している。自分の身体を見つめ直し、少し心と体が楽になるインタビューとなった。

    ◇

――2015年1月に刊行された『なぜふつうに食べられないのか』では、拒食・過食を繰り返してしまう女性たちにフォーカスが当てられていました。一方で、男性についても、最近は過激にさえ見える糖質制限ダイエットやジムが流行したこともあり、自らの身体や健康をきちんとコントロールすべきだ、という空気が強くなっています。この点について、どうご覧になっていますか。

 大きく2点に分けてお話しできると思います。まず1点目は、それまでは「痩せたい/痩せるべき」という欲求や社会的な規範意識は、ダイエットに象徴されるように主に女性の話だったんですね。歴史的、文化的に女性の身体は社会の規範の影響を強く受けやすく、それが美の基準として表れていることが知られています。飢饉(ききん)の危険にさらされる地域ではぽっちゃりした身体が健康的で美しいとみなされ、逆に、食料が十分で簡単に太ることができる社会では、痩せた身体が美しく健康であるとみなされます。1980年代くらいから女性のダイエットが加速したのは、まさにこういった社会変化の影響を受けてのことと言えるでしょう。自己管理ができ、あふれる食べ物に惑わされないライフスタイルを体現しているのが、痩せて引き締まった身体というわけです。

 しかし最近、この影響は男性にまで顕著にみられるようになってきました。メタボリックシンドロームや生活習慣病といった言葉が身近になり、それが中年男性と結びつけられるようになったことが大きいのでは、と私は考えています。 メタボリックシンドロームや生活習慣病と聞いて、痩せた中年女性をイメージする人はまずいないでしょう。まず頭に浮かぶのは、おなかの出た中年男性のはずです。

  

厳しいメタボ基準がもたらした”自己管理しなければ”という圧力

――男性の身体や健康も女性と同じような規範にさらされるようになってきた、と。

 はい。「おなかが出てぽよぽよしている男性は、将来糖尿病のような病気になる可能性がある。そしてそれは仕方のないことではなく、自己管理の甘さによるものである」という自己責任論が男性の身体に強く向けられるようになったということです。特に私は、2005年に初めて定められたメタボリックシンドロームの国内基準が男性に厳しいものであったこと、そしてメタボは生活習慣の問題とされたことに注目をしています。たとえば厚生労働省の2005年の報告では、40歳から74歳の男性の2人に1人がメタボリックシンドロームの予備軍とされました。しかしその際の判断基準の一つ「腹囲85cm以上」というのが、他のアジア圏が「腹囲90cm以上」としているのに比べて厳しかったのです。女性の基準より男性の基準のほうが厳しかったのは日本だけでした。

 男性の多くが引っ掛かってしまうような基準が医学という権威により定められ、しかもそのリスクが腹囲として可視化されたインパクトは大きいと思います。メタボの基準は腹囲だけではありません。ですが基準の一つが誰の目にもとまるものであったため、「そのたるんだおなかは、あなたが自己管理ができていないからであり、自己の責任で痩せるべきだ」というまなざしが生まれ、それを男性が内面化していったのではないでしょうか。ダイエットをうたった商品は売れますから、女性の身体だけではなく、男性の身体も消費の対象としてマーケットに取り込まれていったというわけです。

SNSの普及が進めた”身体のディスプレー化”

――なるほど。もうひとつの要因は何でしょうか。

 2点目は、SNSが普及する中で、身体がどんどんと「ディスプレー化」している、ということです。これは女性も含めての話なのですが、みんな自分の身体がカッコイイと言われると気持ちがいいので、FacebookやInstagramにどんどん“自撮り”の写真を上げていきますよね。ちょっと服をめくって腹筋を見せたりして。

――鏡の前で、絶妙な角度のポーズで撮影された写真は多いですね(笑)。

 人間は社会関係の中で生きている動物なので、その関係性において、他よりも少しでも優れた身体を持っていたらうれしいし、ほめられたら気分がいいですよね。ですから、老若男女を問わず、身体が消費社会の中で「ディスプレー」として取り込まれている、と言えるのです。

 そもそも私としては非常に不思議なのですが、これだけオフィスワークを行う人が多い時代において、そこまで引き締まった筋肉は必要ないと思います。コンピューターを持ち運ぶのにはそんなに力は要りませんし、遠くまで年貢米を運ぶ必要もありませんよね。6パックに分かれた腹筋が、なぜ今の男性に必要なのでしょうか?(笑)

  

――過剰な「ディスプレー化」が進むと、自分の身体が常に他者と比較されるようになっていきますよね。

 そうすると、インターネット上にアップされた写真に比べて――それが仮に自分自身の写真であったとしても、自分たちの「いまここ」の身体は常に“失敗作”になっていきます。当然ながら、アップする写真は一番カッコイイと思えるものを上げるわけですし、場合によっては修整さえかけるわけですから、ちょっと油断すれば、今生きている自分はそれよりも劣ってしまうわけですね。だから永遠に、私たちの身体は“失敗作”になってしまう。

 誰かに写真を見られるときも同様です。アップされた写真は常にネット上や社会を浮遊しますから、仮に一度はダイエットに成功したとしても、その後に太ってしまったら、「あらあら、あの人、激太りしちゃって……」「あのときは、あんなに気分良さそうだったのにね」と言われてしまう。その意味でも、“見られる身体”を常に意識していないといけない世の中になってきていると感じます。

科学的にみえる過激な情報に惑わされない

――そうした行き過ぎた社会的な規範に対して、私たちはどのように対応すればよいのでしょうか。磯野さん自身も、かつては運動生理学を専攻しながらも文化人類学に転じ、「科学が語りえないもの」を探究していらっしゃいますよね。

 ひとつは、上にあげたような身体と社会の関係を知り、自分はそのような価値観とどの程度の距離をとるのか考えることだと思います。そしてもうひとつは、一見、科学的にみえる過激な情報に惑わされないことではないでしょうか。私はかつて科学こそがすべて、科学的なことは絶対に正しい答えを導く、という確信を持っていたのですが、次第に科学的には解決できない現象が世界にはたくさんあることに気がついていきました。

 その意味で、今の社会をとりまく過剰な「エビデンス主義」、つまりエビデンスさえ掲げればゆるぎない真実を語ることができる、といった風潮には強い危機感を抱いています。たとえば、ある糖質制限派の医師が、3本の論文を根拠に「日本人に対する糖質制限の有効性はすでにエビデンスベースで支持されている。従ってこれを否定することは科学的根拠を無視した似非(えせ)科学につながる」といったことを著作に書いています。しかし、そこで参照されている3本の論文を読んでみると、とても彼の言うような一般論は導けないことがわかります。

 しかし多くの人は、著名な医師が実際の論文を引用しながらこのようなことをいえば、それを疑わず信じてしまうのではないでしょうか? ある管理栄養士の方からお話を聞いたのですが、いくら自分が努力して指導しても、権威のある著者の本で知識を得た患者さんは「いや、あの大先生が言っていたから」と聞いてくれないことも多いようです。

  

――科学やエビデンスが過剰に適用されることがあるんですね。

 はい。科学やエビデンスが、絶対的真実を語る神様のようになってしまう。身体や健康に限らずとも、現代社会の様々な事象を科学的に論じた本が昨年ベストセラーになりました。しかしあれもきちんと読めば、科学的な見地として引用されているものが我田引水であったり、著者の方が言い過ぎていたりした記述に満ちていることがわかります。とはいえ、元の論文にあたっていちいち検証することはかなりハードルが高いでしょう。ですから科学を錦の御旗にして「絶対にこれが正しい」というような主張は疑ってかかるべきだと思います。

 科学とは非常に謙虚な営みであり、そんなに簡単に「こちらが正しくてあちらは間違っている」といった白黒の結論は導くことができません。私たちの生き方は非常に多様ですし、持って生まれた身体の特徴も異なります。このような多様性を無視し、十把ひとからげに何かを言いきるような物言いは、たとえそれが権威ある人から発せられたものでも少し距離を取るべきなのではと思います。

 そして、たとえば自分が糖質制限をしているとして、友人と食事をしているときに「そんな食事の仕方じゃダメだ」などとその友人に注意し始めたり、隣の人の食事にいらつきを感じ始めたりしたら、“黄色信号”ではないでしょうか。食というものはそもそも、おいしさを存分に堪能したり、誰かとの語らいで心を躍らせたり――いわば「“今”を楽しむ」もの。毎日どんぶり飯をたらふく食べているような人はもちろん気をつかうべきですが、未来のリスクをコントロールしようとする科学や、予防医学を中心にした医療とはうまい付き合い方をしないと、生の“今”を楽しめなくなってしまいます。

 20世紀初頭のアメリカには「ファット・クラブ」という集まりがあって、太っていることが男性のステータスとされていた時代さえありました。現在の言説は、本当に新しいものなのです。そこまで過剰に気にすることなく、散歩くらいから始めてみませんか?

(文・ライター 宮田文久、写真・高野由香里)

  

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磯野真穂

国際医療福祉大学大学院講師。専門は文化人類学。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学修士課程修了後、早稲田大学文学研究科博士課程修了。早稲田大学文化構想学部助教を経て現職。著書に『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』『医療者が語る答えなき世界 「いのちの守り人」の人類学』がある。

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