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「第二の思春期」の社会人が読むべき翻訳小説は 藤井光さんに聞く

  • 2017年10月4日

  

――藤井さんは、空港のような「ターミナル」から、もっとボーダーレスな「荒れ地」を作家たちが描くようになってきた、と論じていらっしゃいましたね。

 空港の「ターミナル」は、スピードや効率が最優先されて人が振り分けられる、機能最優先の空間ですよね。無駄なく情報と人がやりとりされ、伝統へのこだわりや歴史性は重視されない場所です。グローバル社会におけるビジネスパーソンは、その機能美に乗ってスムーズに移動するでしょうし、そうした「ターミナル」は、自分の持っている能力だけで勝負ができるという現代社会の構造と似ています。そして、アメリカが理想に掲げる多文化主義の社会像とも、きれいに重なりますよね。

 しかし、その機能美を支えるために、空港あるいは社会で働く人々が必要です。例えば移民たちです。彼らは、「ターミナル」をスムーズに移動できる搭乗券やIDは持たず、仕事にクレームをつけられたら生活がガラッと一変してしまうような危うさのなかで生きている。作家たちはそうした矛盾に気づいていきます。「ターミナル」的な社会の中で矛盾がぶつかりあっていることを発見し、その“裏側”である、もっと複雑な文脈が入り乱れた「荒れ地」を描こうとしている――それが、僕が小説を翻訳していて感じることです。

――藤井さんもそうした「荒れ地」を描く作品に惹かれるわけですね。

 はい。ただ、これは微妙な話なのですが、例えば、移民の人が描く典型のひとつとしてアイデンティティの葛藤と解決を描くものには、正直に言えば僕はあまり惹かれないのです。僕は政治的にはこうしたアイデンティティの問題は絶対に解決されるべきものだと思うものの、その先の想像力を発揮するべきものが小説であると感じるのですね。

 例えば家庭のなかでは親の生まれた国の言葉を用い、学校など家の外では英語を用いる主人公がいる。そのうち、両者のどちらに自分は属しているのか思い悩み始め、二転三転するうちに、「ああ、自分はどちらも受け継いでいるアメリカ人だ」と納得する物語のパターンがあります。

――ハイブリッドな文学の定型ですよね。

 それは、各グループが自分自身の伝統を肯定しながら「アメリカ人としてアメリカ社会の一部であれ」というアメリカの多文化主義的な理想と重なるわけです。一個人としてそうしたアイデンティティの決着を見ることは幸せだと思いますし、大事なことです。しかし、そこで自分探しをしても、そんなきれいには収まらないアメリカの姿を小説は描かなければいけないのではないか。そんな気がしてなりません。

――それこそアメリカだけではなく、日本でもどこでも、現代社会の普遍的な問題ですよね。

 繰り返すように、アイデンティティの解決は、政治的には正しいですし、きちんと実現されるべきものだと思います。しかし一方で、なんらかのグループに帰属して安心したいとは思わない、つまるところ誰にも尻尾を振りたくないという作家たちがいる。自分自身を支えていると思っていた基盤がなくなってしまったような、そうした殺伐とした「荒れ地」を想像力で描きたい――そんな作品たちがあるのです。

  

――藤井さんは、翻訳に際して、作品や世界に対してとても謙虚な立場を取られていますね。

 エゴが強いタイプの人は、文芸翻訳はやりきれないのではないか、とは感じます。そもそも、自分を越える何かを物語として受け取り、それにどう応えようかと書き手として自分を問い詰めながら描かれているのが元の小説であり、その小説にどこまでこたえられるのかということを、翻訳者はときには何年もかけて考えるわけですね。

 そうした思いを受け継がなければと思いますし、一方で、翻訳はそうやって元の小説を受け止めて、後につづく、未来の読者にバトンを引き継いでいかなければいけません。

 自分探しをしている場合ではないというのはここにも関係していて、自分のアイデンティティが見つかったと納得することは、結局は「自分ファースト」に過ぎないのかもしれないのですね。そうではなくて翻訳というのは、究極のことをいうと、「自分がいない世界」――つまりは自分の死後の世界まできちんと想像できるかどうか、という点にかかってきます。翻訳というプロセスを日常的に経験しているので、余計にこう感じるようになっていってしまうのです(笑)。

――そうした感覚は、日々あくせく働いていると失いがちですね。

 30代後半になり、人生における「第二の思春期」に入ったように感じます。社会人になってから数えるとだいたい十代後半、まさに社会人としての思春期ですよね。仕事もできる範囲が増えて来て、一方で周りの目や評価も気になってくる。そして「自分」を生きることに必死になればなるほど、人に迷惑をかけることも多くなる。

 僕は逆に、平均寿命からいうと、おおよそ自分の命の半分は終わったな、むしろ死者との距離が近くなってきたな、ではどう過ごさなきゃいけないだろう……と最近つとに考えています。やっぱり究極的には、自分がいなくなってもまだ続いていく世界に対しての畏敬の念があって、それを踏まえて、人に対してどういった行動をすればいいんだろう、という思考になっていきますね。翻訳小説を手がける、読むといった経験は、もしかしたら、そういうふうに発想を変えることにつながるかもしれません。

(文・ライター 宮田文久、写真・佐伯慎亮)

  

藤井光
1980年、大阪府生まれ。翻訳家。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了、同志社大学文学部英文学科准教授。著書に『ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』、編著に『文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』など。訳書にデニス・ジョンソン『煙の樹』、ウェルズ・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、サルバドール・プラセンシア『紙の民』、テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』、ハサン・ブラーシム『死体博覧会』(2017年10月24日刊行)など多数。

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