インタビュー

「時間を奪われた」と思わせない広告だけが、パーソナライズされた時代に生き残る

  • メディアアーティスト・落合陽一さんインタビュー
  • 2018年5月16日

メディアアーティストで筑波大准教授の落合陽一さん

メディアアーティストで筑波大准教授の落合陽一氏が、5月15日、都内で開催中の国際的な広告関連業界のイベントAdvertising Week Asiaでの基調講演に登壇した。講演を前に、&マガジン編集部など複数メディアのグループインタビューに応じ、メディアと広告の将来像について語った。

――パーソナライズ広告が増えている今、例えばテレビのようなマス広告が持つ意味はなくなっていくでしょうか。

落合 なくなっていくと思います。ただ全部はなくならないですよ。例えば、固有種は世界中にいますけど、生存ゲームだから、全世界のあらゆるところに生える植物もいれば、ニッチな場所にしか生えない植物もいる。

つまり、ニッチ戦略と、グローバル戦略のどちらか片側が消滅するなんてことはないですよね。

けど、これまでの社会ではニッチが少なかったのは明らかで、ニッチ側が増えていく流れは保ちながら、マスとパーソナライズ、インディビジュアル(個人)の二項対立ゲームになるんじゃないかと思います。

――自分に興味のない広告がテレビで流されていると、ついチャンネルを変えたり、録画だったら飛ばしたりしてしまいますよね。テレビCMもよりパーソナライズされる方が良いのでは。

落合 映画の予告編のようになればいいんじゃないかな。僕予告編見るの割と好きですよ。あのくらいエンタメ性があれば広告も見ても楽しい。だけど、柔軟剤のCMを延々とかけられても飽きちゃうし。

・こんなことができた

・こんな面白いことがある

・こんな美しい景色がある

というのは、マスと個人の関係の中であってもそれ自体が楽しいじゃないですか。それなら僕の時間を消費されたとは思わない。ただ、僕にはそれがマーケティングになっているのかはわかりません。でも企業の存在価値は飛躍的に上がるんじゃないですかね。ブランディングイメージなのか、プロダクトを売るのかのバランスということですよね。

これからは、プロダクトを売るための広告でモノが売れるのかというと、そんなに消費者には“刺さらなく”なってしまうかもしれない。でも、ブランドがあることによってプロダクトは売れるのだからそれでいいんじゃないの、という考え方に落ち着く気がする。

質問に答えつつ、開始時間が迫った基調講演の資料に手を入れる多忙な落合さん

だって、車とかiPhoneとか高額なプロダクトを買うのであれば、もっと密接なコミュニケーションに基づいてパーソナライズされた広告のほうが強いですよね。だけど、密なコミュニケーションを必要としない製品を売るのであれば、マスな広告はあってもいい。だから、マス広告をやっている会社がなくなるとは全然思っていない。

ただ、面白くないスタイルで、面白くないCMを流す会社はなくなっていくと思いますよ。見ていて「俺の時間を奪うなよ」って思うやつってあるじゃないですか。例えば、好きでもないアイドルがチューインガムの宣伝してくれても、僕は何もうれしくない。

でも、時間を奪われたとは思わなかった広告をいくつか知っています。美しいというか。アウディのCMだったかな。テオ・ヤンセン(THEO JANSEN、オランダの彫刻家)が出てきて語ると、僕は「おおーっ」って思うわけです。僕がテオ・ヤンセンを好きだからかもしれないけれど、めったにマスメディアに出てこない人が出てきて、重いことを言う。それにはすごい価値があって、広告をメディアとして使っている。それはこれからのやり方として非常にあると思う。

――印象に残っているCMってありますか。

落合 たくさんの人が踊るポカリスエットのCMがありましたよね、とても美しくて、撮影が大変そうな。ポカリスエットである必然性もないんだけど、見ていて映画的でいいなと。あれをみてポカリスエットは飲まないけれど、ポジティブな印象はある。ひょっとしたら別の機会に、大塚製薬の製品に興味を持つかもしれない。これはすごく重要だと思います。

それでいいじゃないですか。しかも、あのCMを見て僕は時間を消費された気にならないしね。

――広告は社会に必要ですか?

落合 例えば、明日から世の中に全く広告がなくなったと想像してみましょうか。(10秒ほど思考後)僕は困らないかな。あ、でも、吉野家が新商品を出したかどうかは、店の前を通らないとわからなくなってしまう。僕のように、街を歩きながらキョロキョロ見回して、パシャパシャ写真を撮るような人は、「知らない」ということに恐怖は感じません。でも、それはかなり少数派です。知らないことに恐怖を感じる人にとっては、広告がなくなると困るかもしれない。広告には、教育とはまた違った、そうした未知への恐怖をなくす、新しいものに慣らすという役割はあるわけです。

パーソナライズされた広告が増えても、マス広告の役割が消えることはない、と語る落合さん

テクノロジーは極めて自然なものです。しかし、これまでテクノロジーと広告は別のものだと考えられてきました。そんなことはまるでない。大前提として。広告とは、おそらくデザインでした。情報をどうやって最適化するか。またはマーケティング工学だったわけです。それが、ハードウェアだったりソフトウェアだったり周辺のデザインと工学を巻き込んでいる状況になっている。

それについて僕はとてもポジティブです。そりゃそうだろうって。広告はアートじゃねえだろう。でもアートな広告もあるかもしれない。広告の文脈で、アーティストを持ってきて作品をつくらせるのは全然悪くないと思う。アーティストがアートをつくっている様子が、デザインされてマーケティングされたとしたら、非常に面白くて意味がある。だって、アーティストやサイエンティストたちはコミュニケーションが苦手だから。

広告はそれをどう伝えるかというスタンスで動いているから、21世紀的な文脈で広告が持つ意義はでかいですよね。あらゆる4象限を含んだものになってきている。広告には、「俺の時間を奪うな」と思う一方で、「奪ってくれてもいいぞ」って思うこともいっぱいあるわけです。

――広告と教育の違いってなんでしょう。

落合 教育とは、人をどうしたいか。能力をインストールすることで人を変えてしまうものです。一方で、広告は集団をなにかに慣らすことだと思います。

基調講演のタイトルは『日本再興戦略 ~広告業界が取るべき未来戦略とは~』

――来月発売予定の新著『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』について教えてください。

落合 3年ぶりに僕自身が書いた本です。かなりがんばりました。聞き取りを修正した他の本とは違います。最初の『魔法の世紀』はアート論から入ったので若干難しかったですが、今回は社会論やテクノロジー論から入っています。とはいえ、僕の本を一冊も読んでいないと難しいと思うので、一冊読んでからぜひ購入して下さい。“薄まっていない”落合陽一を読むことができると思います。

落合陽一さんが愛用しているこの日のヨウジヤマモト。デザインされた言葉をつい読んでしまう

 

インタビュー後の基調講演で落合さんは、近代以前は「まじない」であったものが、科学によってその理由がわかって「脱魔術化」したが、スマホやPCのような、中がブラックボックスになっていて仕組みを理解できない計算機が普及したことで「再魔術化」が起きている、と説明。次はまた技術は自然へと戻っていく、と語った。

こうしたこれからの「技術化・自然化時代」の広告については「知らないものが増えていく中で、興味の総量を売り買いすることが広告の本質である。社会の問題や新規参入してきたものには、とりあえずコミュニケーションしていたほうがよい」という意味で、意義があると話していた。

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(取材/文・&マガジン編集部 久土地亮、撮影・矢野拓実)

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