時計のセカイ

もはや人類のインフラだ カシオ F-91W

  • 文 広田雅将
  • 2016年3月11日

30年近く、変わらぬまま作られるF-91。しかし電子回路は小型化され、液晶を照らすランプもLEDに進化した。重さはわずか21g! クォーツ。樹脂ケース×樹脂ストラップ(縦35.2×横38.2mm、厚さ8.5mm)。3気圧防水。2900円(税別)。なおこれは、文字盤の縁取りがブルーのF-91W-1DGである

 アメリカのあるジャーナリストが「アメリカではいわゆる高級時計は売れない」と嘆いていた。「アメリカ人が時計に求めるのは、頑強さと正確さのみ」と彼は断言した。「理由はなぜだと思う?」「わかりませんね」「ウォルマートで売っているカシオのせいだよ」。

 1970年代後半以降、さまざまなメーカーがLCDウォッチ(いわゆる液晶時計)の分野に参入した。テキサス・インスツルメンツ、インテル、セイコー、タイメックス、カシオなどなど。しかし最終的にこのジャンルを制覇したのは、タイメックスと、それ以上にカシオであった。理由はシンプルだ。他社のLCDウォッチよりはるかに壊れにくく、電池が長持ちする上に、液晶が見やすく、価格も安かったためだ。やがて同社が、頑強さを売りにしたG-SHOCKを作ったのもうなずける。

 1980年代後半になると、カシオは既存のLCDウォッチの特徴はそのままに、より安価なモデルを作ろうと考えた。それが社内名称「Zシリーズ」である。これは時計の中身を自動で組み立てることで、コストダウンを図る試みだった。しかしむしろ製造コストはかさみ、品質も安定しなかったという。そのためZシリーズの生産は、2年程度で終わったといわれる。

 そこで企画チームはZシリーズの設計を生かした、新コレクションを作り上げた。そのひとつが、今回紹介するF-91Wである。搭載するのは、省コストのLCDムーブメント、QW-593。おそらく世界で一番生産されたLCDムーブメントだろう。設計陣はムーブメントにビスを使わないビスレス構造を採用。しかし同時に耐久性を与えた。しかも使われているLSIは、日本メーカーの手がけた高級品だった。G-SHOCK用のムーブメントほど手間はかかっていない(G-SHOCK用のLCDムーブメントは、耐久性を上げるため極端に重厚な設計を採用した)が、値段を考えれば十分以上だ。

 今や「チプカシ」の名前で呼ばれる、カシオ製の安価なクォーツウォッチ。中でもQW-593を載せたF-91Wは代表作だ。コストを下げるため、ケース、バンド、風防はプラスチック製。しかし軽いため装着感は極めて優れていた。また機能も充実しており、セミパーペチュアルカレンダーに100分の1秒を計測できるクロノグラフと、液晶を照らすライトを内蔵していた。電池寿命も7年と、この価格帯のLCDウォッチの水準をはるかに超えたものだった。

 安くて機能の充実したF-91Wはたちまちベストセラーとなった。極論だが、機能だけを言えば、時計はF-91で十分なのである。カシオでは把握できていないそうだが、業界関係者いわく、今までに売れた数は億を超えるだろう、とのこと。仮に億と考えると、日本国民は大体1人がF-91を買ったことになる。ちなみにムーブメント単体で一番売れているのはシチズン製のクォーツムーブメント、2035系だ。これは累計生産数が30億個を超えた、時計業界のモンスターである。しかし時計単体で考えれば、おそらくF-91が世界でもっとも作られた時計になるだろう。時計という枠を超え、もはや人類のインフラストラクチャーとなったF-91W。アメリカの時計ジャーナリストが、「高級時計が売れないのは、ウォルマートで売っているカシオのせい」と嘆くはずだ。

 今やAppleを筆頭に、各社が優れたスマートウォッチを出すようになった。にもかかわらず、今後もF-91Wの需要が衰えることはないだろう。これほど安価で、これほど多機能で、しかも丈夫で長持ちする時計はほかにないからだ。おそらく100年後も、カシオはこの「人類のインフラ」を作り続けているに違いない。

[PR]

PROFILE

広田雅将(ひろた・まさゆき)

時計ジャーナリスト。1974年大阪府生まれ。サラリーマンなどを経て現職。現・時計専門誌クロノス日本版(www.webchronos)主筆。国内外の時計賞で審査員を務める。趣味は旅行、温泉、食べること、時計。監修に『100万円以上の腕時計を買う男ってバカなの?』『続・100万円以上の腕時計を買う男ってバカなの?』(東京カレンダー刊)が、共著に『ジャパン・メイド トゥールビヨン』(日刊工業新聞刊)『アイコニックピースの肖像 名機30』がある

BOOK

ジャパン・メイド トゥールビヨン-超高級機械式腕時計に挑んだ日本のモノづくり-

ジャパン・メイド トゥールビヨン-超高級機械式腕時計に挑んだ日本のモノづくり-
(B&Tブックス)

独立時計師の浅岡肇さんと由紀精密、工具メーカーであるOSGとの共同企画である「プロジェクトT」をまとめたものです。現役の独立時計師が時計作りについて書いた本は、これを含めても数冊しかないでしょう。その中で広田は日本の時計産業がいかにして興り、衰退したかを書かせていただいています。ベースになったのはクロノスの連載記事ですが、内容は大幅に変えてあります。今の時計作りに興味のある方はぜひぜひ。(広田雅将)

アイコニックピースの肖像 名機30

アイコニックピースの肖像 名機30
(東京カレンダーMOOKS)

各メーカーのいわゆる「アイコン」モデルを、第一作と最新作を中心に取りあげたものです。各モデルのファーストモデルをこれだけ撮り下ろした本は、おそらくこれのみでしょう。また、プロジェクトの当事者たちのインタビューや、ムーブメントの詳細解説なども記しています。価格の高い時計が中心になってしまいますが、各モデルの概要をコンパクトに知るには分かりやすい書籍ではないかと思います。(広田雅将)

&Mの最新情報をチェック


&Mの最新情報をチェック

Shopping