沖縄建築パラダイス

失われた城をもとめて「首里城復元」

  • 文 馬渕和香
  • 2015年3月13日

戦争で跡形もなく消えた首里城は、おそろしく膨大な資料をおそろしく綿密に分析することによって復元された。首里城正殿の顔ともいうべき唐破風(からはふ)も、古文書や古写真、さらに台湾に残されていた拓本などをもとに復元された

写真:首里城がいつ誰によって築かれたかは今も不明。14世紀半ばには存在していたといわれ、15世紀の前半に琉球王国の王宮になった。1879年の琉球処分によって王国が消滅した後は「沖縄神社」になるなどした。王国時代にも3度焼失している 首里城がいつ誰によって築かれたかは今も不明。14世紀半ばには存在していたといわれ、15世紀の前半に琉球王国の王宮になった。1879年の琉球処分によって王国が消滅した後は「沖縄神社」になるなどした。王国時代にも3度焼失している

写真:城の地下に日本軍の司令部が置かれたため、米軍の砲撃に遭った。戦後、城の跡地に琉球大学が設置されたが、復元を望む声が首里の古老らから上がり、それが全県的な運動に発展して、ついに1980年代半ば、政府の支援を受けて復元が決定した 城の地下に日本軍の司令部が置かれたため、米軍の砲撃に遭った。戦後、城の跡地に琉球大学が設置されたが、復元を望む声が首里の古老らから上がり、それが全県的な運動に発展して、ついに1980年代半ば、政府の支援を受けて復元が決定した

写真:戦前の首里城の名残をとどめるのは、城壁の一部などごくわずか。国建の平良さんによれば、城壁の復元には、戦前の首里城を知る古老たちの証言が役立った。「抜群の記憶力の方がいた。子どもの頃にやんちゃ坊主で、城のなかをあちこち動き回ったらしいです」 戦前の首里城の名残をとどめるのは、城壁の一部などごくわずか。国建の平良さんによれば、城壁の復元には、戦前の首里城を知る古老たちの証言が役立った。「抜群の記憶力の方がいた。子どもの頃にやんちゃ坊主で、城のなかをあちこち動き回ったらしいです」

写真:「尚家文書」とともに正殿の内部の復元に貢献した「寸法記」は、故・鎌倉芳太郎氏の著書「沖縄文化の遺宝」の挿絵が糸口になって発見された。正殿は総木造。当時、沖縄では大規模木造建築の技術が途絶えていたため、建設には本土の宮大工が参加した 「尚家文書」とともに正殿の内部の復元に貢献した「寸法記」は、故・鎌倉芳太郎氏の著書「沖縄文化の遺宝」の挿絵が糸口になって発見された。正殿は総木造。当時、沖縄では大規模木造建築の技術が途絶えていたため、建設には本土の宮大工が参加した

写真:正殿の左右に配置された南殿と北殿は、復元に役立つ資料が乏しく外観のみの復元にとどまった。王国時代、中国からの使者、冊封使(さっぽうし)の接待所としても使われた北殿では、2000年の沖縄サミットの際に夕食会が行われた 正殿の左右に配置された南殿と北殿は、復元に役立つ資料が乏しく外観のみの復元にとどまった。王国時代、中国からの使者、冊封使(さっぽうし)の接待所としても使われた北殿では、2000年の沖縄サミットの際に夕食会が行われた

写真:首里城の復元工事はいまも続く。国建の平良さんは約30年にわたり復元に関わってきた。「幸いというか、1年たりとも離れたことがないです。徹夜もたくさんやったし、仕事そのものはきつかったけれど、高良さんや上司や仲間たちと復元を語りながらやってきた。楽しかったですね」(写真 馬渕和香、モノクロ写真は那覇市歴史博物館提供) 首里城の復元工事はいまも続く。国建の平良さんは約30年にわたり復元に関わってきた。「幸いというか、1年たりとも離れたことがないです。徹夜もたくさんやったし、仕事そのものはきつかったけれど、高良さんや上司や仲間たちと復元を語りながらやってきた。楽しかったですね」(写真 馬渕和香、モノクロ写真は那覇市歴史博物館提供)

 “地上から消えた城”を探す旅の途中で、高良(たから)倉吉さんは「神様からのプレゼント」のような18世紀の古文書と出逢(あ)った。

 「最初見た瞬間、たまげましたね。そうか、これが現役の首里(しゅり)城かと。ある意味では、神様からのプレゼントですよ。見た瞬間、これでかなりの力作ができる、胸を張って誇れるような復元が可能だと思いました」

 19世紀後半まで450年にわたって存在した琉球王国。その王宮であり、シンボルでもあった首里城は、1945年、沖縄戦で焼失した。歴史学者である高良さんの表現を借りれば「完全に地上から姿を消した」。

 その“消えた城”が、戦後40年ほど経って復元されることになったとき、高良さんは時代考証を任された。

 「おそろしい作業になることは分かっていました。その段階で、建物を正確に復元する資料は僕の念頭にありませんでしたから」

 失われた城の痕跡をもとめて、高良さんは古文書の山に分け入った。在りし日の首里城というパズルのピースを、そこから丹念に拾い集めた。

 「たとえば、旧士族の家に伝わる系図を350点ほど見て、首里城の工事に関わった人間を探しました。首里城がいつ焼けて、いつ再建され、いつ修理されたかを調べるためです」

 こんな苦労話もある。資料が思うように集まらず焦っていた高良さんは、鹿児島に出張した際、地元紙の記者に「資料がなくて困っている」と弱音を吐いた。

 「『琉球にゆかりのある鹿児島あたりに残っていると助かるんですよね』と話をしたんです。そしたら彼は、紙面で読者に資料提供を呼びかけてくれました」

 そのとき提供された資料も含め、消滅した城の姿をつたえる古文書や古写真は、戦争で焦土と化した沖縄よりも、むしろ本土に多く残っていた。

 「古写真で言えば、沖縄の人が撮ったものはほとんどなかったです。本土から来た研究者などが撮った写真が残っていて、それを活用しました」と、設計作業に携わった国建(くにけん)の平良(たいら)啓さんは言う。

 「胸を張って誇れる」復元を可能にしたという古文書「寸法記(すんぽうき)」(略称)も、東京で保管されていたために焼失を免れた。ひょんな偶然から高良さんたちの前に現れた「寸法記」は、18世紀に行われた首里城の大修理を記録したもので、当時の首里城の“設計図”のような性格を持つ。

 「寸法記」と並んで、王国時代最後の大修理を記録した「尚家文書(しょうけもんじょ)」(略称)も、復元の大きな手がかりになった。琉球国王の末裔(まつえい)である尚家から提供されたその資料には、修理のあとの大宴会で振る舞われたごちそうのメニューまで事細かに記されていた。

 「既に入手していた資料に、寸法記を重ね、そこに尚家文書を重ねた瞬間に“現役時代”の首里城が見えました」

 高良さんが見た首里城は、1992年、一般に公開された。

 「おそろしい作業」に覚悟を決めて飛び込んだ高良さんや「首里城に取り憑(つ)かれていた」という平良さんらが、膨大な資料からパズルのピースを拾い出し、組み上げ、よみがえらせた朱色の城。沖縄の青空に美しく映えるその鮮やかな朱(あか)は、復元に全身全霊を傾けた人々の情熱を語る色でもある。

 首里城公園 沖縄県那覇市首里金城町1-2 電話:098-886-2020

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PROFILE

馬渕和香(まぶち・わか)

元共同通信英文記者。翻訳家。初めて訪れた沖縄島のヒトとマチに恋をして1999年に移住。以来15年間、素朴で飾り気はないものの沖縄のエッセンスがギュッと詰まった小さな宝石のような築半世紀のカーラヤー(瓦家)に暮らす。建築に興味を持つようになったのは、雑誌で見たファンズワース邸に感動したのがきっかけ。好きな建築家はジェフリー・バワ、そして沖縄の素敵な風景を作り上げてきた無数の名もなきアマチュア建築家たち。

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