1964年式に乗るミケーラさん(右)は、姉のデボラさん(左)と80キロメートル離れたグロッセートからやって来た
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■航空技術者がつくったスクーター
『「ビンテージ・ベスパ」走行会をイタリアで開催』フォトギャラリーはこちら
イタリア人の昔話に欠かせない2台の乗り物がある。1台は『フィアット・チンクエチェント』、そしてもう1台はスクーターの『ベスパ』である。
イタリアの国語辞典にもVespaの項には「スズメバチ」という意味とともに「スクーターの商標名」と記されている。
この『ベスパ』を語るには、メーカーであるピアッジョ社から説明する必要がある。同社は1884年、まだ20代だったリナルド・ピアッジョさんがジェノヴァに設立した客船内装施工会社にさかのぼる。社業は順調に発展を遂げ、鉄道客車や航空機、水上機へと広げていった。第二次世界大戦に突入すると、航空機部門はさらに増強されたが、1964年に分社化されて、現在も「ピアッジョ・アエロ」として存続する。
やがて大戦末期になると、ピサ・ポンテデラの工場は米軍の攻撃に備え、北部ピエモンテのビエラへと疎開した。そこで登場するのは、航空技術者コラッディーノ・ダスカーニョさんである。彼は、ビエラの地で早くも終戦後のモータリゼーションを支える乗り物を模索していた。やがて到達した答えは、スクーターだった。だがドイツやフランスの既存品は耐久性・メンテナンス性に乏しく、1台で日常生活をまかなうには適さない代物だった。同時にダスカーニョさんは、従来のモーターサイクルの煩雑な操作性も嫌っていた。
「イタリアを我々の2輪で埋め尽くしたい。しかし、今のモーターサイクルでは駄目だ」とダスカーニョさんは語ったという。
最初のプロトタイプ「MP5」は、工場従業員から「パペリーノ(ディズニーのドナルドダック)」というニックネームが付けられ好評だったが、役員からは不評だった。やがて1945年に開発された2号目プロトタイプ「MP6」は、航空機出身のダスカーニョさんらしい知恵が満載されていた。ボディーは軽量で強固なスチール製モノコック、カンチレバー式リアサスペンションは軽さだけでなくタイヤ交換の容易性も実現した。運転中のすべての操作は両手のみで、それもグリップから離すことなく行えるようにした。また、乗る者が路面の泥やオイルで衣服を汚すことがないよう配慮した。
「MP6」の絞られたテールをひと目見た創業2代目のエンリコ・ピアッジョさんは「まるで、スズメバチのようだな」と呟いたという。『ベスパ』誕生の瞬間だった。
■自由を象徴するカルチャー
生産型『ベスパ』は46年、ローマのゴルフ・クラブを舞台に発表会が行われた。
その後、幸運にも53年のアメリカ映画『ローマの休日』で、グレゴリー・ペック演じる米国人新聞記者が、オードリー・ヘプバーン扮する王女を乗せて走り回った。それによって『ベスパ』は一躍世界に知られることになった。
63年にはそれまでの125cc及び150cc仕様に加えて、より手軽な50ccシリーズが加わった。『ベスパ』のタイプを細かく分類すると、今日までに三十数種にも及ぶ。エレクストリック・スターターの採用など、たゆまぬ操作性の向上も普及を助けた。77年には、新リアサスペンションの「PX」シリーズが投入される。
当時、イタリアの若者の間で『ベスパ』は、クルマを持つ前段階のモビリティーとしてだけでなく、自由を象徴する一種のカルチャーとなった。
『ベスパ』はダスカーニョさんが意図したとおり、戦後イタリアのモータリゼーションを牽引していき、移動手段としてもてはやされ続けた。
しかしライバルとして、ミラノのインノチェンティ社がつくる『ランブレッタ』が存在した。モノコックの『ベスパ』に対して、こちらはフレーム構造で容易なパネル変更が可能だったため、より時流に即したファッショナブルなデザインを特徴としていた。だがイタリア人たちは、最終的に『ベスパ』を選び『ランブレッタ』は市場から消えていった。
やがて96年には新世代である「ET」シリーズがローマで発表された。当時、イタリアにやって来たばかりの筆者は、歴代モデルのエッセンスを巧みに取り入れたそのデザインが話題となったことを記憶している。
この新世代シリーズは後年発展を遂げ、現在イタリアでは5つのバージョンが販売されている。前述の「PX」シリーズは今も健在だ。イタリア本国で生産が終了した後も名車の呼び声が高かかっため、発表から36年が経過した今でもインド製が輸入されているのである。
■魅力を与え続ける『ベスパ』
ビンテージ・ベスパ・ファンは、世界のさまざまな街で活発にファン・ミーティングや走行会を催している。ここに紹介するのは、トスカーナの古都シエナで6月16日に開かれたミーティング&走行会である。
主催した「ベスパ・クラブ・シエナ」は会員数約280名。役員を務めるパオロさんは、77年生まれの35歳だ。日頃は市警察官である。当日の愛車は「150スプリント・ヴェローチェ」だった。「ボクの生まれた年と同じ年式だよ」と嬉しそうに教えてくれた。彼はなんと『ベスパ』を32台も所有しているという。「なぜそこまで『ベスパ』を?」 との筆者の問いに「子どもの頃、いつもステップに立ち乗りして、親父と一緒に走ってたからね」と幸せそうな顔で答えた。
朝9時に開場すると、イタリア屈指の景勝地を走ろうと、さまざまな地域から参加者が到着し始めた。たちまち約140台に達し、受付担当者は大わらわだった。
集まったオーナーたちに話を聞く。紙でデコパージュを施して風合いを出していたアレッサンドロさんの愛車は、66年モデルだ。「これ、父親の形見なんです」。休日はピエロの格好をして乗り、小児病院や高齢者ホームを訪問しては、病気と闘う子どもやお年寄りを楽しませているという。
いっぽう、会場の木陰に、美しくレストアされたシャトルーズ・グリーンの1台を発見した。64年式で、オーナーは94年生まれの19歳という女性だった。ミケーラさんという名の彼女は、80キロメートル離れたグロッセートの街から朝7時に出発してきた。「『ベスパ』の魅力は?」と聞くと「おじいちゃんが乗っていたのと同じだから」。そして「こうやって集まって楽しめるところ!」という快活な答えが返ってきた。
オーストリアのナンバー・プレートを付けた『ベスパ』もあるのでオーナーを探すと、こちらもバルバラさんという若い女性だった。彼女がこのイベントを知ったきっかけは、偶然だった。パートナーのルドヴィクさんと一緒に、大好きな『ベスパ』でトスカーナの休日を堪能すべく、キャンピングカーに載せてきた。シエナの街へと繰り出したのだが、交通整理していた警察官に制止されてしまった。シエナは他の歴史的旧市街同様、住民以外の車両は進入禁止なのだ。「でもその警察官は『週末にベスパのミーティングがあるから参加するといいよ』って親切に教えてくれたの」。『ベスパ』が結ぶ縁であった。
乗って走れば、国籍を超えて誰でもすぐに友達になれる。70年代にイタリアの若者たちが感じていたのと同じ魅力を現在でも与え続けているのだ。

コラムニスト。東京生まれ、国立音大卒(ヴァイオリン専攻)。二玄社『SUPER CAR GRAPHIC』編集記者を経て、1996年独立、イタリア・シエナに渡る。現在雑誌・webに連載多数。実際の生活者ならではの視点によるライフスタイル、クルマ、デザインに関する語り口には、根強いファンがいる。テレビ・ラジオでも活躍中。主な著書に『Hotするイタリア―イタリアでは30万円で別荘が持てるって?』(二玄社)、『カンティーナを巡る冒険旅行』(光人社)、訳書に『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)。電子書籍に、iPad/iPhone/iPod touch用『イタリア式クルマ生活術』(NRMパブリッシング)。最新刊に『イタリア発シアワセの秘密 笑って!愛して!トスカーナの平日』(二玄社)。
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