朝日新聞の記者になって2年目の1965年夏、大分県立津久見高校について、はじめて甲子園に行った。原辰徳巨人軍監督の父、原貢監督率いる福岡県代表、三池工が初出場初優勝した年である。記者席に座っているだけでも暑いのに、炎天下のグラウンドを全力で打って走って守る高校球児には、ただただ脱帽のほかなかった。
『週刊朝日』で「野村克也の目」の連載を始めた1981年は、評論家1年生の野村さんと行った。「生涯一捕手」の母校は京都の予選で勝ったことがなく、甲子園は夢のまた夢の舞台である。野村さんは入場行進をする球児をうらやましそうな目で見ながら、
「人生の最後は、田舎の名もない高校の監督で終わるのもいいなあ」
と、ボソリとつぶやいた。
このところテレビで見る野村さんの目は、そのころの輝きを失っているような気がしてならない。現役時代はホームラン王を競った仲の福岡ソフトバンク・ホークス会長、王さんの目は年とともに、輝きを増している。というより、野球少年のままである。この違いはどこからくるのか、プロ野球記者に聞いてみたい。
1985年の夏は『週刊朝日』のグラビアの仕事で、江國滋さんと行った。短い文章とスケッチを描いてもらうためである。今では作家、江國香織さんの父上として有名かもしれないが、当時、文と絵の両刀を使って江國さん以上の人はいなかった。文も絵も、シャイで洒脱なお人柄そのままだった。
決勝戦は桑田、清原のいる大阪代表・PL学園と山口県代表・宇部商業である。
9回裏、PLは2死からランナーを2塁に置いて3番松山主将が右中間にクリーン・ヒット、サヨナラ勝ちで優勝を決めた。打球に追いついた宇部商のセンター藤井君は、負けを知ってグラウンドにつっ伏したまましばらく動かなかった。その時、江國さんが詠んだ一句が、
「汗は汗、涙は涙、負けは負け」。
大人の男は、全力を尽くした敗者には優しいことを、この句で学んだ。

ヘビ年のサソリ座。司馬遼太郎さんに「ヤクザ的」と言われた元『週刊朝日』編集長。東京で生まれ伊豆・下田に疎開し湘南・鵠沼で育った71歳。朝日新聞編集委員時代はサッカーの神様ペレの足を触ったり、日本で最初に『軍艦マーチ』を流したパチンコ屋の話などを書いた、丸谷才一さんの文章の直弟子。著書に『炎の作文塾』(朝日新聞社)、『学はあってもバカはバカ』(かまくら春秋社)、『いまなぜ白洲正子なのか』(東京書籍)、『孤高 国語学者大野晋の生涯』(東京書籍)などがある。エッセイスト、日本医師会広報委員会委員、NPO法人 日本語検定委員会審議委員。
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