沢木耕太郎 銀の街から

「ある過去の行方」徐々に浮かぶ「空白の一人」

  • 文 沢木耕太郎
  • 2014年4月30日

写真:マリーアンヌ(ベレニス・ベジョ=右)はサミール(タハール・ラヒム)と恋仲になっているが マリーアンヌ(ベレニス・ベジョ=右)はサミール(タハール・ラヒム)と恋仲になっているが

 見知らぬ街で初めての酒場に入る。店には常連らしい先客が数人いて、カウンターの中にいる男女と言葉を交わしている。酒を飲みながら、その言葉の切れ端を聞くともなく聞いているうちに、おぼろげながら彼らの関係がわかってくる。カウンターの中にいる男女は夫婦のように見えて夫婦ではなく、常連客の間にはその女を巡って微妙な感情の交錯があるらしい……。

 そんな風にして、酒場という劇場で繰り広げられている人間劇の相関図が浮かび上がってくることがある。

 もしかしたら、この「ある過去の行方」も、断片的なひとつひとつの台詞(せりふ)から、徐々に複雑な人間劇の相関図が透けて見えてくることの「驚き」を味わう映画だと言えるかもしれない。

    ◇

 あたかも何枚もの版木を刷り重ねていくことで一枚の絵を完成させていく浮世絵にも似て、いくつかのシーンが映し重ねられていくことで登場人物の相関図がくっきりとした線となって浮かび上がってくる。

 監督はイラン人のアスガー・ファルハディ。近年、これほど巧みに人間を描くことのできる映画作家も珍しい。わずか二時間余で、女と二人の娘、男と幼い息子、そしてさらにもうひとりの男という六人の人物が、最も幼い男の子に至るまで見事にひとりの人物として描き分けられていくのだ。

 その最初のシーンはパリの空港である。長旅をしてきたらしい男を女が出迎える。しかし、ガラス戸に隔てられ、呼びかける女の声は届かない。通りすがりの旅行者に教えられ、男はようやく女の存在に気がつく。

 二人がどのような関係で、なぜ男がこの空港に現れ、どうして女が出迎えているのか。それがわかるまでには、まだいくつものシーンを必要とする。

 だが、それを退屈だとは思わない。何か不穏なことが起こりそうな危うさが感じられるからというだけでなく、主舞台となる女の家とその周辺に漂うフランスの移民社会の気配に、リアルな吸引力があるからだ。

 やがて、男と女はかつて結婚をしていた仲であるらしいことがわかってくる。男はなぜか故国のイランに戻っており、女の要請に従い、正式に離婚するためフランスに戻ってきたということであるらしい。女は、なぜいまになって正式に離婚することを望むようになったのか。

 さらに、女と共に暮らす二人の娘が、その男との間の子でないこともわかってくる。にもかかわらず、娘たちは男になついている。とりわけ男に深い親愛の情を示す長女は、それだけが理由と思えないほど、幼い息子と共に家に転がり込んできた母の新しい男を嫌っている。それはなぜなのか。

 ひとつ、またひとつとシーンが映し重ねられていくことで、それぞれの関係が可視化され、いま起きている問題の根が露(あらわ)になってくる。それによって浮かび上がってきた相関図には、その中心に空白の人物が存在することが明らかになる。そして、それぞれの登場人物から、その空白のひとりに差し伸べられるべき関係の線が、この映画のサスペンスを支えることになるのだ。いったいそれはどのような線なのか。愛なのか、憎しみなのか、恐れなのか、あるいは悔恨なのか……。

    ◇

 これは素晴らしい作品だと思う。しかし、傑作と呼べるかどうかはわからない。たぶんその判断は、最後のシーンをどう捉えるかで分かれるだろう。物語を終わらせるための、いささか安易なラストだったのか。あるいは、人間の不思議を描くためには、そのラストこそ必要だったのか。

 私は――。

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