沢木耕太郎 銀の街から

「きっと、うまくいく」友の謎追い 美しき世界へ

  • 文 沢木耕太郎
  • 2013年6月6日

写真:主人公ランチョー(アーミル・カーン、中央)ら超難関大学の同級生3人は、珍騒動を引き起こす主人公ランチョー(アーミル・カーン、中央)ら超難関大学の同級生3人は、珍騒動を引き起こす

 この「きっと、うまくいく」はインド映画らしくないインド映画と言えるかもしれない。少なくとも、私がイメージするインド映画とはかなり異なっている。最小限の歌と踊りは出てくるが、それが映画にとって本質的な要素とはなっていない。むしろ、大学生活を描いた青春グラフィティ映画として、広く世界に通用する普遍性を持っているように思われる。グラフィティ、つまり壁に描かれた落書きのような、愚かしさと紙一重の煌(きら)めきを持つ物語として。

 ランチョーとファルハーンとラージューの三人は、インドの最難関工科大学の寮で同室になる。その大学は、学長が学生を馬車馬のように勉学に追い立てることで、インド一という名声を獲得していた。だが、ランチョーは、成績などまったく意に介さず、自由に考え、自由に学び、自由に楽しんでいこうとする。やがて他の二人もランチョーに影響され、学長の思惑に反する道を歩むようになる。物語は、その三人の、いわば「陽気な愚行」とでも言うべきものが生き生きと描かれていく。

 腹を空(す)かせた三人が、邸宅の庭で開かれているパーティーに潜り込み、豪華な食事にありついていると、それが学長の娘の婚約式だとわかって青くなったり、またその一方で、陣痛が起きたものの嵐によって病院に行けなくなってしまった妊婦のために、とっさに自由なアイデアを駆使して赤ん坊を取り出すための吸引機を作ったりもする。

 だが、実は、映画は彼らの卒業から十年後に始まる。ランチョーに翻弄(ほんろう)され、屈辱的な目に遭わされたことのある同級生の「秀才」が、将来どちらが出世しているか十年後に再会しようと宣言した、まさにその日から始まるのだ。ところが、肝心のランチョーが姿を現さない。卒業すると、あれほど親しかった友人の二人の前からも姿を消してしまっていたのだ。

 どこにいるかわからない。しかし、世俗的な出世をした「秀才」は、ランチョーがどこの町にいるか突き止めたという。そこで、親友の二人と仇敵(きゅうてき)の「秀才」の三人は、ランチョーに会うべく、彼がいると思われる高原の町に向かうのだ。

 この、ランチョーを求めての旅の途中に出てくる山と河(かわ)と湖の風景が美しい。そして、この映画がすばらしいのは、前半から中盤にかけて張られていた伏線が、後半に至って見事に回収されていくことだ。観客は、階段を一歩一歩上っていくようにして、なるほどそういうことだったのか、と納得しながら物語の頂きに向かうことになる。

 しかも、それと共に、登場人物の陰影が深く、鮮やかに刻まれていく。例えば、「きっと、うまくいく」はランチョーの口癖だが、それはまじないの言葉であると同時に、希望の言葉であり、ある意味で哀(かな)しみの言葉でもあることがわかってくる。さらには、敵役の学長も、息子の死の原因が明らかにされることで、ひとりの傷ついた親として立ち現れてきたりするのだ。

 ランチョーは卒業後、なぜ親友たちからも身を隠すようにいなくなってしまったのか。どうして相思相愛となった女性と結婚しようとしなかったのか。そうしたひとつひとつの「謎」が少しずつ解けていく。

 そして、クライマックスに至り、すべての伏線が回収され切ったとき、観客は大いなる幸福感で満たされることになる。

 確かにこの「きっと、うまくいく」はインド映画らしくないインド映画だった。しかし、その最後に、束(つか)の間であれ、世界を美しいものと感じさせてくれるという点においては、多くのすぐれたインド映画とまったく変わりないものだったのだ。


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