東京の台所

<3> 毎朝スクランブルエッグだけつくる場所

  • 文・写真 大平一枝
  • 2013年1月30日
  

<住人プロフィール>
会社員。33歳。
賃貸マンション・1DK・東急目黒線 不動前駅(品川区)・入居7年・ひとり暮らし

    ◇

「ごめんなさい。誘惑に負けて少し片づけてしまいました」

 初対面の住人は、開口一番こう言って申し訳なさそうに笑った。東大卒。海外出張が多くて多忙。わずかな情報から勝手に想像していた紋切り型のイメージと、実際の飾らない人柄、どこを片づけたかわからないカオスの台所のイメージが重ならなくて一瞬、戸惑った。

「夜は全部、外で食べます。食べるタイミングを逃して帰宅したら、作るのはめんどくさいからビール飲んで寝ちゃう。この台所で気に入っているところ? 特にないなあ。本当は下町が好きで隣の武蔵小山に住みたかったんだけど家賃が高くて。不動前は、エアポケットみたいに本当に何もない街。個性もお店も。人と飲んだりするのは恵比寿です」

 一時期、趣味で乗っていた自転車のハンドルにはビールの空き缶とゴミ袋が。今は乗る時間もないので、もっぱら次のゴミ収集日までの一時置き場だ。冷蔵庫からはきっかり1年前の肉が出てきた。

「あ、そんなの出てきました? 昔、宴会やったときの食べ残しですね。好きな器? ないない! ちょっとかわいいようなマグは全部、友だちの結婚式の引き出物です。この歳になると、そんなのばっかたまっちゃって」

 そのマグは手の届きにくい吊り戸棚の中にある。お茶を入れないので支障はない。シンクの下には、学生時代から持っている片手鍋がごろん。「野菜、最後に買ったのいつだろう。うーん」。というわけで、この鍋の最終使用日はわからない。

 ただ、大きな袋に入ったプロテインは毎日、飲んでいる。毎週土曜日、草野球チームの監督をしているので体作りに必要なのだ。「っていうより、子どもの頃から野球部で、母親から食べないと大きくなれないよって言われて育って。その頃からプロテインは習慣になってるんです」

 野球が終わったあとのビールは格別に旨い。ワインに凝っていた時期もあるが、ビールがいちばんというところにたどり着いた。友だちともよく飲むし、コンビニで買ってひとりでも家飲みする。ある月は酒代に20万が消え、へこんだこともあるらしい。「今月はもう飲むまいって決めたんだけど、すぐに禁は破られました」

 実家の広島から地元の甘い醤油が送られてくるが、なにしろ料理をしないので気づいた頃には味が変わっている。

「たのむから送らないでって母に言いました」

 その故郷に帰省すると、「あまりに何もかもがゆったりしていて、かえってイライラしてしまう自分がいる」とのこと。高校生の頃は何とも思っていなかった路面電車のスピードに「こんなに遅かったっけ?」とあらためて驚いた。東京でのひとり暮らし15年という歳月は、彼を少々せっかちにしたのかもしれない。

 彼の家で食料といえるのは「さば」と「牛肉大和煮」の缶詰くらい……と思っていたら、冷蔵庫から卵と生クリームという少々ふつりあいな食材がみつかった。

 じつはこのふたつだけは欠かさず買い置きをしているという。スクランブルエッグを作るためだ。

「アメリカに長期で出張していたとき、カフェやレストランで出されるスクランブルエッグだけが心の支えだったんです。会社と宿の往復で、アメリカの料理にもいい加減飽き飽きしていて。でも、スクランブルエッグだけはどの店に行ってもおいしいんですよ。ふわふわしてコクがあって。それを食べられるのが朝の楽しみだった。あの味が忘れられなくて、帰国後ネットで調べたりしてレシピを研究したんです。その結果、生クリームがポイントだってわかった」

 母親から「食べないと大きくならないよ」と言われて育った青年は、今も朝食を食べないと脳みそが働かないと信じているし、どんなに忙しくてもスクランブルエッグの朝食だけは必ず作る。

 玄関から部屋までの通路にある台所は、さまざまのものが入り乱れたカオスストリートだが、完全に食を投げやりにしているわけでもないと紙パックの生クリームが教えてくれる。飾らない彼の人柄そのままの、東京暮らしの自由があちこちからにじみ出ている。

 たぶんここは、お嫁さんが来るまでの人生の休憩所。その日まで、グローブを直す瞬間接着剤や自転車のヘルメットが台所にあってもいい。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

長野県生まれ。ライター。生活やライフスタイルををはじめ、人物ルポなども執筆。著書に『ジャンク・スタイル』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『日曜日のアイデア帖〜ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『かみさま』(ポプラ社)、『スピリッツ・オブ・ジャンク・スタイル』『ジャンク・スタイル・キッチン』(風土社)ほか多数。共著に『母弁』(主婦と生活社)、『ジャンク・ウエア』(平凡社)など。 ホームぺージ「暮らしの柄」

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