複線型のすすめ

ライオンを退社、青年海外協力隊に 井出留美さん(中)

  • 文 松崎幸治
  • 2013年5月14日

写真:青年海外協力隊員として、モロヘイヤの調理法をフィリピンの女性たちに教える井出さん(右端)青年海外協力隊員として、モロヘイヤの調理法をフィリピンの女性たちに教える井出さん(右端)

写真:青年海外協力隊員として、栄養改善のために通っていたフィリピンの村の子どもらと青年海外協力隊員として、栄養改善のために通っていたフィリピンの村の子どもらと

 東日本大震災をきっかけに日本ケロッグを退社した井出留美さんには、20代、30代にも大きな転機があった。大学を卒業して入った最初の会社を5年で辞め、青年海外協力隊員としてフィリピンで約2年間過ごした。任期満了が見えてきたころ、急きょ帰国することになる。大きな挫折だった。なぜ、会社を辞めたのか、フィリピンで何があったのか、時間をさかのぼってみる。

 <井出留美さん(上)はこちら

 都市銀行員の父親は転勤が多く、北海道から九州まで転々とした。その結果、小学校3校、中学校1校、高校2校で学ぶことになる。3カ所目の小学校では、転校生が珍しく、方言がしゃべれなくて、いじめにあった。学級委員をしていた前の小学校では、友達がいじめられているのを見て見ぬふりをしたこともあり、「神様が、いじめられる子の気持ちを分からせようとしているんだ」と考えた。

 食への目覚めは、風邪をひいたとき母親が作ってくれた葛湯がきっかけだ。液体を加熱するとゲル状になるのが面白かった。5歳から、母親の愛読書「家庭の料理」を読むようになった。飲食店のメニューを画用紙で作ったり、母親のケーキ作りを手伝ったり、フライパンでアップルパイを作ったりした。高校でダイエットに励んだ際、食品成分表を読むのが好きになった。高1で食物学科への進学を決め、関東以外の国立大学で同科があった奈良女子大学一校を受験し、無事合格した。

 大学入学と時を同じくして、父親が高知支店長に昇進した。祖父も銀行の支店長を務めたことがあり、待望の支店長だったが、その年の12月、脳梗塞で倒れた。3日後に容体が急変し、井出さんが奈良から高知の病院へ駆けつけた翌朝、息を引き取った。46歳だった。あまりに早い父親の死に直面し、「命はいつ、突然、絶えてしまうかもしれないから、今できることをやっておく」ということを肝に銘じた。

 奨学金を受給しながら大学を卒業した井出さんの就職希望先はサントリー(本社・大阪市)だったが、母親は関東での就職を望んだ。関東の企業でただ1社、井出さんのゼミに求人のあったライオンに就職した。家庭科学研究所に配属され、スキンケア商品の評価・解析をする一方、長期的には皮膚の老化について研究した。商品の評価では、自らが実験台となり、髪の毛の半分をA社、のこりをB社で洗ったり、競合会社の歯磨きと比較したりした。長期的研究では、20〜50代の男女100人の被験者から定期的に目尻のしわを型(レプリカ)にとり、これに光をあてて影の出来具合を画像解析して、数値化した。

 社内の「業務研究コンテスト」では、同期4人と一緒に介護用品を開発して、準優勝した。介護現場でのニーズを探るため特別養護老人ホームでのボランティアに参加し、食事の補助や床ずれを防ぐために体の向きを変えたりした。この体験をもとに、社内にある素材を活用して、床ずれ防止マットや部屋に置いてある便器用の消臭剤などの商品を作り、社長ら経営陣の前で発表した。

 こうした仕事は面白く、社風もアットホームで居心地はよかった。でも、「研究結果をもとにした商品が世に出るまでに十年以上。新入社員ということもあり、自分が世の中の役に立っているという実感が乏しかったですね」。そんなもやもやした思いを抱えていたとき、業務研究コンテストのためにボランティアを体験、想像以上に大変だったが、役に立っていると感じられた。ボランティアの道を模索するようになったころ、青年海外協力隊が食品加工隊員を募集していることを知った。幼い頃からの関心事の食にかかわることで、人の役にも立てる。5年間の会社生活にピリオドを打つことにした。

 日本での訓練を終え、1994年7月、フィリピンへ。派遣先は首都マニラから北へ約120キロのタルラック市、任務は地元の産物を使って食物加工することだ。前任者はいないため、具体的な仕事は自分で考え出さねばならなかった。タガログ語は分からず、人脈もない。最初は女子大生らに照り焼きチキンの作り方を教えたりして、「困っている人のために来たのに一体何をしているのだろう」と落ち込んだ。

 1年ぐらい試行錯誤をする中、大学の先生から貧困地域で活動するシスターを紹介してもらえた。そのつてで、低体重児の栄養改善プログラムを始めたり、折り紙を教えたりして、少しずつ、本来の活動らしくなっていった。フライドチキンとコーラといった単調な食事の人も多く、野菜をあまり食べていないことも分かった。栄養価の高いモロヘイヤは1束4円と安価だったが、あのネバネバが苦手な人が多いので、揚げ春巻きに刻んで入れたり、スープのとろみ付けに使ったりといった調理法を考えて、女性たちに教えた。

 手に職のない女性のためには、モロヘイヤのクッキーやキャンディなどの菓子を作って、売るという自立支援プロジェクトを立ち上げた。村にはクッキーを焼くオーブンがなかった。その費用を工面するため、フィリピン中の青年海外協力隊員が集まる総会へ、一人で作ったケーキや洋ナシのタルトなどを持ち込んで買ってもらったり、JICA職員らにも販売してカンパを募ったりした。その金を村人に寄付して一緒にマニラへ買いに行く日、村人は貴重なニワトリを締めて、鶏肉の弁当を作ってくれた。村人から感謝されて、達成感が得られるはずだった。ところが、「オーブンの購入について、なぜか、シスターが自分の手柄のようにふるまったのです。手柄を横取りされたように感じました」。今から考えると、すでに精神的に不安定になっていたのかもしれない。この頃の記憶はすでにあいまいになっている。

 96年3月末、大豆で豆乳を作るプロジェクトの助成金の話を調整員としたときのことだ。調整員が東京の顧問医に電話をかけ、井出さんも医師と何かを話したように思う。電話が終わると、直ちに帰国するよう命じられた。荷物の整理もできないまま、翌日の便で帰国した。「うつ状態で、自殺の恐れがあると判断されたのかもしれません。オーブンの件もありましたが、自分の栄養状態もよくなかったですね。食べ慣れた日本の米と違うパラパラ米で、すべてが甘い味付けの食事は合わず、ビタミンB群も不足していたはずです」

 任期満了まで、あと3カ月だった。全うできなかったことへの自責の念にかられた。帰国してから、何もする気が起きなかった。心療内科に通い、薬を飲んだ。お世話になった人たちに手紙を書こうとしたが、一文字しか書けず、文章にならない。大好きな寿司を食べても、文字通り「砂」をかむような感じで、味がしなかった。「一生このままだったらどうしよう」「こんな情けない自分なんか、いなくなればいい」「生きていてもしようがない」。こんな思いが、頭の中をぐるぐると回った。

(「井出留美さん」は3回のシリーズです。次回は5月21日に配信する予定です。)

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PROFILE

松崎幸治(まつざき・こうじ)

1957年、香川県生まれ。1982年、朝日新聞社入社。86年から大阪本社・社会部で裁判などを担当、『AERA』編集部、東京本社・社会部を経て成田支局長に。「成田空港問題」を連載して出版。99年から電子電波メディア局で「朝日新聞デジタル」の前身「asahi.com」の編集。知的財産センターなどを経て2012年からデジタル事業本部へ。現在、「朝日新聞デジタル」内の新ウェブマガジン「&M」担当。2001年から1年間育児休業取得。

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