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設計の妙が光る、井伊家14代の居城 彦根城(1)

  • 文・写真 萩原さちこ
  • 2017年2月20日

井伊家代々の居城・彦根城。築城410周年を迎える

  • 天守は国宝に指定されている

  • 太鼓門を抜けると本丸に到達する

  • 登城道を登り切った、右手が天秤櫓

  • 橋下の通路は巨大な堀切になっている。かつては木製の引橋がかかっていた

  • 現存する天秤櫓は、大手門と表門の登場道が合流する要に位置にある

  • 搦手の大堀切。ここを攻略しなければ本丸へ侵入できない

  • 搦手には西の丸三重櫓が待ち受ける

  • 西の丸三重櫓の西端に設けられた登り石垣。城内には5本の登り石垣がある

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 井伊直虎が主人公の2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」がスタートした。井伊家といえば、直虎よりも有名なのは初代彦根藩主の井伊直政ではないだろうか。父・井伊直親の横死により直虎の養子となり、徳川家康に仕えると徳川四天王のひとりと呼ばれるほどに活躍した。最強といわれた部隊「井伊の赤備え」を率い、勇猛果敢ぶりから「井伊の赤鬼」と怖れられたと伝えられる一方で、政治・外交手腕にも長け、家康の天下取りの功労者として歴史に名を残している。

 関ケ原合戦後、幕末まで井伊家の居城となったのが彦根城だ。直政は石田三成の旧領である、近江・佐和山18万石を拝領。関ケ原合戦の傷が原因で没したため長男の直継が家督を相続したが、家康の直命により次男の直孝が後継した。彦根城の築城は1603(慶長8)年、直孝により佐和山城のわずか西方2キロの地で開始された。

 佐和山は、戦国時代から争奪戦が繰り広げられてきた地だ。湖南の佐々木六角氏と湖北の京極氏がぶつかった両勢力の境目であり、のちに浅井氏が湖北の覇権を確立した後も六角氏との攻防が続いた。織田信長・豊臣秀吉の支配下となってからも、近江の要衝として重要視された。家康は日本の東西を結ぶ大動脈が走るこの地の重要性を考え、大坂城(大阪府大阪市)の豊臣秀頼および西国の大名を牽制する拠点として、信頼する直政に託したのだ。

 軍事的役割を担うだけでなく、徳川家の権力と威厳を見せつけ新時代の到来を示すのも、彦根城の重要な側面だったことだろう。こうした経緯で、幕命によって諸大名が普請工事を請け負う天下普請により、軍事力と豪華さを兼ね備えた彦根城が誕生した。のんびりと歩きながら現存する壮麗な天守や石垣を堪能でき、穏やかな琵琶湖の景色も楽しめる彦根城は観光地として人気が高い。しかし、実は緊迫した情勢下で生まれた城なのだ。

 実戦を想定しているため、軍事施設としての設計の妙が光る。たとえば、天秤櫓(やぐら)の周辺もそのひとつだ。表門から登城道を登り切ると右手に天秤櫓門が見えてくるのだが、橋の下をくぐって3度左折を繰り返し、橋の上を渡らなければ天秤櫓門を突破できない。高速道路のジャンクションのような面倒くさい構造だ。実は、橋下の通路は人工的に山を断ち切った大堀切の堀底。侵入者は本丸側の天秤櫓と独立分離した鐘の丸から挟み撃ちされるというわけだ。橋を壊されてしまえば、本丸へ侵攻することはできない。

 同じように、裏手にあたる搦手(からめて)も大規模な堀切で分断されている。城内側には西の丸三重櫓と続多聞櫓が鉄壁のようにそびえ、行く手を阻む。さらに、堀に沿い山麓に向かけては登り石垣が設けられ、これより西の曲輪を完全に分離している。

 登り石垣は、斜面に沿って這うように積まれた高さ1~2メートルの石垣だ。秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の侵攻先で築かれたもので、いわゆるバリケードのように機能する。彦根城では、登り石垣の上に瓦塀が設けられていたようだ。登り石垣は洲本城(兵庫県洲本市)や松山城(愛媛県松山市)などにしか現存例がなく全国的に珍しい遺構だが、彦根城では5本が確認できる。

(つづく。次回は2月27日に掲載予定です)

交通・問い合わせ・参考サイト

彦根城

JR「彦根」駅より徒歩15分

0749・22・2742(彦根城管理事務所)

彦根市のページはこちら

彦根観光協会のページはこちら

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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