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秀吉が築かせた、駅前の名城 甲府城(1)

  • 文・写真 萩原さちこ
  • 2017年3月13日

甲府城のシンボルでもある稲荷櫓。2004(平成16)年に復元された

 甲府駅南口を出ると、甲府城はすぐ目の前に見えてくる。駅前には信玄公像があり、また駅から車で8分のところには武田氏3代の居館・武田氏館がある。そのため甲府というと“武田の地”のイメージが強いのだが、甲府城は武田の城ではなく、武田氏滅亡後に築かれた城だ。

舞鶴城公園となっている甲府城は、市民憩いの場。桜の名所としても知られる

 舞鶴城公園としてきれいに整備され、近年復元された城門や櫓が建つ、近代的な雰囲気がただよう城だ。そのため歴史的な価値があまり感じられないのだが、実は甲府城の石垣は希少性がある。そもそも、この場所に石垣で囲まれた立派な城がつくられたのには、それなりの理由がある。武田氏3代が本拠を構えた地だけのことはあり、甲府は戦国時代から重要な要衝なのだ。

復元された鉄門は本丸と天守曲輪の境にある櫓門で、明治初年まで現存していた

 甲府城は、1590(天正18)年に江戸に入った徳川家康を牽制するため、豊臣秀吉が家臣の加藤光泰や浅野長政・幸長父子に築かせた城だ。言い換えれば秀吉政権の甲府支社といったところで、秀吉配下の家臣が持つ技術で築かれた、秀吉流の城である。浅野家の家紋瓦のほか、秀吉が家臣だけに使用を許した金箔瓦も発掘されている。秀吉は、東山道沿いに仙石秀久の小諸城、真田昌幸の上田城、石川数正の松本城、東海道上に中村一氏の駿府城、山内一豊の掛川城、堀尾吉晴の浜松城などを置いていた。いずれの城からも、金箔瓦が出土している。

天守台は浅野幸長・長政により築かれたと考えられる

 1582(天正10)年に武田氏が滅亡すると、織田信長は徳川家康に甲斐を支配させたが、秀吉はこれを奪い家康を関東に移した。甲府城は、1593(文禄2)年に浅野父子により完成したとみられるが、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦後に浅野氏は紀伊へ移り、甲斐は再び家康の支配下に置かれた。

 甲府城の歴代城主が、家康の九男・徳川義直、3代家光の弟・徳川忠長、家光の二男・綱重と、徳川家の人物であるのはそのためだ。錚々たる顔ぶれから、甲府城がいかに重要かつ格の高い城だったかがわかるだろう。綱重の長男・綱豊は甲府藩主を経て、6代将軍家宣となる。

屋形曲輪とニの丸をつなぐ内松陰門も復元されている

復元された稲荷櫓。江戸時代にあった7棟の櫓のうち、北西に建っていた櫓。武器の収納庫だった

 清水曲輪や追手曲輪などを増設し、台所門や帯曲輪門などの城門を新たに築いたのは、綱豊に代わり甲府城に入った柳沢吉保だ。1705(宝永2)年に描かれたとされる絵図『楽只堂年録』には城の構造が詳しく描かれ、現在復元されている銅門や鉄門を備えた本丸、その南側の天守曲輪、復元された稲荷櫓も記されている。吉保は城の大改修だけでなく、甲州街道の整備、堰づくりをはじめ、民政や農政に力を注いだ。

市街地化が進んでいるが、一部かつての面影を残す場所もある

 城下町は、城の北・南・西面に武家地、町人地は北側武家地のさらに北側と、南側武家地の東側に配されていた。武家地を囲むように西側を北から南に通る二の堀は、今でも住宅街を断片的に走り、朝日公園の西側では鉤の手の遺構も残る。

二の堀。多くは明治に入り埋め立てられてしまったが、二の堀と三の堀跡は断片的に残り往事の姿をたどれる

 中世の街道は二の堀に沿うような形で上樺沢町、下樺沢町、相川町、百人町と南下し、穴切町口で東へと通じていた。その旧街道に沿うように残るのが甲府上水で、県立図書館裏などにわずかながら遺構がある。飲用水が出なかったため、浅野長政の命により相川や荒川から水が引き入れられた。

(つづく。次回は3月21日に掲載予定です)

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交通・問い合わせ・参考サイト

甲府城
JR「甲府」駅より徒歩2分
055-237-5702(甲府市観光課)
埋蔵文化財センター 甲府城研究室のページはこちら
甲府市のページはこちら

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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