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城下町、鉄砲の里・国友、竹生島を歩く 長浜城(2)

  • 文・写真 萩原さちこ
  • 2017年4月3日

秀吉は1582(天正10)年まで長浜城に在城し、城下町をつくり繁栄させた

<長浜城(1)からつづく> 

 長浜城と城下町を築いた秀吉は、この地が湖北の統治にふさわしいと見込んでいたようだ。長浜は北陸と京阪神を結ぶ、北国街道が通る好立地。また、城の背後は琵琶湖に面していた。堀の一部には船着場のような施設もあったというから、琵琶湖の湖上交通を重視していたのだろう。

 現在、黒壁ガラス館の建つ場所が、北国街道と大手門通り(美濃谷汲街道)の交差点にあたる。江戸時代には高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれる。城下を流れる米川を利用して、琵琶湖から北国街道を経由し、小舟で米や油などの物資が輸送されたという。

 長浜城は秀吉の居城であるだけではなく、主君・織田信長にとっての近江支配拠点のひとつだった。信長は居城の安土城(滋賀県近江八幡市)のほか、長浜城、坂本城(滋賀県大津市)、大溝城(滋賀県高島市)の4城で琵琶湖を利用した城郭ネットワークを構築していたと考えられている。そのひとつを任されていることを考えれば、秀吉が信長からいかに信頼されていたか想像がつく。

茜色に染まる姿も美しい。長浜の琵琶湖畔の夕陽は「日本の夕陽百選」に選ばれている

 長浜城の全容はわかっていないが、琵琶湖に突き出すように築かれていたようだ。現在、琵琶湖の中に「太閤井戸の跡」の石碑があるのはそのためだ。城内の用水に使用された井戸のひとつなのだろう。城の東・南・北面は三重の堀に囲まれていた。

城内にある石垣出土地の碑。水面下に石垣とみられる延長約30メートルの巨石列が見つかったという

 商人や職人たちを呼び集めた城下町は碁盤の目のように町割りされ、秀吉により政治、商工業、交通の中心地としての基盤がつくられた。金屋町、鍛冶屋町などは金屋や鍛冶屋など、職人町の名残りだ。

内堀と二重の外堀の間には家臣団の屋敷が建ち並び、二重の外堀の間には職人町や商人町が集まっていたと考えられる。もっとも外側の堀は幅30メートルほどあったようだ

真宗大谷派長浜別院である大通寺の門前に続く表参道。和菓子や香を扱う店など、落ち着いた雰囲気の店が並ぶ

 碁盤の目のような町割りは、秀吉が後につくる大坂城や伏見城の城下町と共通する。 長浜城下町は、信長による安土城下町とともに新しい町づくりの先駆けであり、同時に秀吉の城下町づくりの原形といえそうだ。

 長浜は、真宗大谷派長浜別院・大通寺の門前町としての顔も持つ。大通寺には数々の重要文化財があるが、なかでも必見は本堂と大広間。いずれも、伏見城からの移築と伝わる。江戸時代初期に建立された大広間は、床、帳台構、違棚、附書院などが上段の間に正面一列にずらりと並ぶ。桃山御殿の趣を伝える、極彩色で描かれた花鳥図や人物図が見事だ。狩野山楽、狩野山雪筆の含山軒の山水画も美しく、伊吹山を借景とした名勝・含山軒もすばらしい。

総欅造りの、大通寺の山門。脇門は長浜城大手門の移築といわれ、門柱や側柱の用材や金具などに桃山時代の様式を伝える

 長浜城から車で約20分、姉川のほど近くにある国友(滋賀県長浜市国友町)も、歴史ファンには感慨深い場だ。国友といえば、戦国時代から江戸時代にかけて名を馳せた、鉄砲の製造地。1543(天文12)年に種子島に鉄砲が伝来した翌年には、足利将軍の命により国友で鉄砲の製造が開始されたという。この地域は古くから戦が絶えないため、技術力のある鍛冶屋が多くいたのだ。

 『国友鉄砲記』によれば、1549(天文18)年にはいち早く鉄砲を導入した信長により、500挺の注文を受けたという。1575(天正3)年の長篠・設楽が原の戦いでは信長による鮮やかな三段撃ちが語られるところだが、このとき使用された3000挺のうち、500挺が国友鉄砲だったといわれている。

国友は、足利将軍からの命により鉄砲の製作が開始された、戦国最大の鉄砲工業地。信長、秀吉の保護を受け、徳川家康により天領となった

 長浜城主となった秀吉も国友の鉄砲鍛冶を厚く保護し、以後、鉄砲戦が主流となると、国友の鉄砲鍛冶は大活躍した。最盛期には70軒の鍛冶屋と500人を超す鍛冶職人がいたといい、かなり組織的な大量生産が行われていたようだ。

 1600(慶長5)年の関ヶ原合戦はもちろん、1614(慶長19)年の大坂冬の陣では徳川家康の発注を受けて国友製の大筒が使用された。信長、秀吉、家康の天下取りに、国友の鉄砲は大きな影響を与えたのだ。

 さて、長浜からは竹生島へのフェリーが出航しているのだが、ここにも秀吉ゆかりのスポットがある。必見は、宝厳寺の国宝・唐門。京都東山の豊国廟から移築したと伝わる、豪華絢爛な桃山時代の建築を代表する唐門だ。近年、1600(慶長5)年に豊国廟へ移築された大坂城の極楽門である説が有力となり、秀吉時代の大坂城唯一の遺構として注目されている。

竹生島は、沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島。「神を斎(いつ)く島」がなまって、いまの名になったという説がある

竹生島でいちばんの絶景スポット、竜神拝所。かわらけ投げができる

 唐門、観音堂と慶長ともに1603(慶長8)年の建立と考えられる渡廊も必見だ。観音堂から都久夫須麻神社に至る屋根付きの幅一間の廊下で、秀吉が朝鮮出兵の際に使用した御座船の材料を用いたという伝承から船廊下と呼ばれている。

船廊下は、秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用してつくられたという。勾配形の化粧屋根裏、連子窓が美しい。唐門、観音堂、船廊下は平成30年度まで修復事業中につき注意

(長浜城の回・おわり)

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交通・問い合わせ・参考サイト

長浜城
JR「長浜」駅から徒歩7分
0749-63-4611(長浜城歴史博物館)
長浜城歴史博物館のページはこちら

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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