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謙信ゆかりの寺と砦を歩く 春日山城(2)

  • 文・写真 萩原さちこ
  • 2017年4月17日

春日山城本丸(実城)からの眺望。御館の乱の舞台となった御館も見下ろせる

<春日山城(1)からつづく> 

 春日山城の山麓にある林泉寺は、上杉謙信が名僧・天室光育の教えのもと、7歳から14歳までを過ごした場所だ。林泉寺は、謙信の祖父・長尾能景が父・重景の菩提を弔うため1497(明応6)年に建立した寺。教養が高く信仰心が厚い謙信の素養は、この時期に培われたといわれている。

上杉謙信が若き日を過ごした林泉寺。再建された山門には、「春日山」「第一義」の大額が掲げられている

 林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものと伝わる。謙信が建立した山門は江戸時代末期の地震により焼失したが、大正時代に再建された。御墓所には謙信公の墓所、川中島戦没者供養塔のほか、近世に春日山城主となった堀氏の墓所などがある。

春日神社。958(天徳2)年に春日山山頂に創建され、越後守護代・上杉氏の氏神として栄えた。奈良春日大社の分霊を祀り、春日山城の名前の由来ともなった。春日山城築城の際、城の鬼門にあたる現在の位置に遷座させられたといわれる

 1578(天正6)年3月13日、春日山城内で謙信が急逝すると、上杉家では家督をめぐり内乱が勃発した。世に言う「御館(おたて)の乱」だ。謙信には実子がなく、家督相続についての遺言が残されていなかった。そのため、2人の養子(長尾政景の子・景勝と、北条氏康の子・景虎)を支持するそれぞれの派閥によって、家中が2つに割れる事態へと発展したのだ。堅城を誇った春日山城がまさか内乱により血に染まるとは、謙信は予想もしていなかっただろう。

春日山城の天守台と呼ばれる曲輪から見下ろす、上杉景勝屋敷跡と柿崎和泉守屋敷。上杉景虎屋敷は三の丸にあったとされる

 景勝は先手を打ち、春日山城内の金や印判、兵器庫などを占領した。すると、景虎は春日山城を離れて上杉憲政を頼り、御館(新潟県上越市)に籠城。実兄の北条氏政に救援を要請して優勢となるも、北条氏と甲相同盟を結んでいた武田勝頼が景勝と甲越同盟を結ぶと、形成は逆転した。武田撤退の報せに激怒した氏政は御館に兵を送るも、越後の深い雪に阻まれ撤退。やがて御館は陥落し、景虎は鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)に逃れ最期を迎えた。

 景虎が籠った御館は、北条氏康に敗れて越後に逃れた関東管領・上杉憲政のために謙信が造営した館だ。関東管領を引き継いだ謙信が、政庁として利用していたともいわれる。

 現在は御館公園という小さな公園があるのみなのだが、かつてはかなり大規模で、二重の堀に囲まれた城塞化された館だった。中心の郭となる主郭だけでも公園の約6倍の面積があり、主郭は東西120メートル、南北150メートルの四角形。総面積は東西250メートル、南北300メートルに及び、主郭を囲む堀の周囲にはいくつもの曲輪が並ぶ構造だったと推定されている。

御館の乱で上杉景虎が籠った、御館の跡。一部が御館公園になっている

かつての御館は、主郭だけでも公園の6倍の面積があったと推定される

 (1)で述べたように春日山城はかなり広大なのだが、周囲5~6キロの範囲内に半径2キロ前後の間隔で無数の砦があり、それぞれが春日山城と緻密に連携していたと考えられている。これらの砦群を含めて、春日山城は成立していたようだ。

(次ページへつづく)

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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