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デルタに築かれた巨城

  • 広島城(1)
  • 2017年7月31日

広島城は1589(天正17)年、毛利輝元によって築かれた。

 JR広島駅から路面電車に揺られながら、最寄りの紙屋町東電停を目指す。電車が走る通りが広島城の外堀跡に思えてしまうのは、城好きの性だ。古絵図を照らし合わせてみると、やはりその通り。外堀と西堂川は明治時代に埋め立てられ、そのほとんどが1912(大正元)年に開業した路面電車の軌道となっている。こんな小さな発見も、城旅の楽しみだ。

 市電を降りてから広島城の出入口となる表御門へは、徒歩で15分ほどかかる。すなわちそれが、外堀南端から三の丸を囲む中堀南端までの距離。広島城の総面積は約90万平方メートルにも及ぶため、この一角だけでもそこそこの距離なのだ。城の広さを体感できると思えば、その道のりも楽しくなる。

路面電車が走る、市内。紙屋町東・西電停が、広島城への最寄り駅だ。

 毛利輝元によって広島城の築城が開始されたのは、1589(天正17)年のことだ。羽柴(豊臣)秀吉に臣従した輝元は、前年の1588(天正16)年に秀吉に謁見すべく上洛。その際、聚楽第(京都府京都市)や大坂城(大阪府大阪市)など最先端の城を目にし、郡山城(広島県安芸高田市)から居城を移すことを決めたようだ。上洛の直前にも郡山城の修理を行っており、広島城の築城は突然だったとみられる。

復元された表御門。現在の広島城見学の出入口になる。御門橋を渡り表御門を抜けたところが二の丸。

 城は、太田川河口部の三角州(デルタ)に築かれている。この地は、かつて五ヶ村(五ヶ浦)と呼ばれた場所で、陸上交通・海上交通の結節点にあたる。祖父・毛利元就が広島湾頭へ進出後に直轄領としていることからも、都市形成において注目の地だったようだ。土や砂が溜まってできた三角州は地盤が軟弱なため難工事だったと伝わるが、近年では、元就時代にある程度の土地開発が進んでいたことが明らかになっている。いずれにせよ、ここを政治・経済・交通の中心地として開発した輝元は、広島の生みの親といえるのだろう。

 1589年7月の書状には堀の普請を命令する記述があり、この頃には築城工事が本格化したとみられる。輝元が入城したのは、1591(天正19)年2月頃。翌年の1592(天正20)年には、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)へ向かう秀吉が立ち寄り、その出来映えを絶賛したといわれている。築城工事は、1599(慶長4)年頃まで継続したようだ。

毛利輝元が築いたと考えられる天守は昭和に入っても現存していた。現在の天守は1958(昭和33)年に復元されたもの。

 広島城が別名・鯉城(りじょう)と呼ばれるのは、地名の「己斐浦(こいのうら)」が由来で、「己斐」を「鯉」と置き換えたからだという。しかし己斐とは地理的に少し離れていることから、根拠に乏しい。堀にたくさんの鯉がいたため、黒い天守が鯉のようだから、など諸説あるが、縁起のよい魚である鯉を採用した可能性が高い。江戸時代末期には漢詩の一節で「鯉魚(りぎょ)の城」と呼ばれ、おもに明治以降に定着したという。ちなみに、プロ野球の球団名である広島東洋カープも、英語の「carp=鯉」が由来。鯉城が冠されているのもそのせいだ。

天守から見下ろす中堀の西面。

 中国9カ国112万石を領有する大大名として豊臣政権下で力を持った輝元だったが、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦を機に失脚する。輝元に代わり安芸・備後2か国49万8000石で入封したのが、福島正則だった。正則は大規模な増改築を行い、膨大な数の櫓を建造。江戸中期および後期の記録には、櫓が88カ所あったと記され、二重櫓は35棟もあったといわれている。

 南側外堀の石垣の下からは輝元時代の石垣列が見つかり、正則が新たに櫓台や土橋などを増築したことが判明している。また、正則は領国支配のために6つの支城を築いたのだが、そのうち1603(慶長8)年から築いた亀居城(広島県大竹市)と共通の刻印石が、太田川沿いの櫓台から見つかった。1615(元和元年)に武家諸法度が公布されると大がかりな増改築が規制されるため、いずれもそれ以前のものと考えられる。

 正則は1619(元和5)年に改易されるのだが、その原因が武家諸法度の規定違反だったエピソードはよく語られるところだろう。1617(元和3)年の洪水によって甚大な被害を受けた城を、正則は翌年から修復。ところが、老中・本多正純に提出した申請が取り次がれなかったのだ。必要な届出を怠り無断で修復したとして、正則は改易に至ったとされている。

 正則が届出を忘れて事後報告をした、それを容赦すべく徳川秀忠が出した条件に応じられなかった、秀忠から命じられていない本丸の石垣・櫓の破却で済ませようとした、など改易の理由はさまざまに推察される。諸条件の不履行が原因、という可能性もあるようだ。いずれにしても、これがきっかけで正則は広島城を去る。正則が破却した石垣だと考えられる、本丸北東面に残る崩れた石垣のみが、その真実を知っているのかもしれない。

本丸北東面に残る、崩れた石垣。福島正則が破却した石垣だと考えられている。

 正則が改易されると、浅野長晟(あさのながあきら)が安芸1か国および備後8郡42万6000石で領主となり、以後は版籍奉還まで浅野家が治めた。浅野時代には武家諸法度により修復以外の大幅な増改築はほぼ行われず、石垣や建造物は福島時代の姿をほぼ留めているとみられる。ただし、三角州に築かれた広島城と城下町は、浅野時代も引き続き洪水に見舞われたよう。洪水や地震などが広島城をたびたび襲い、被害を受けた石垣の修復が繰り返し行われた。

本丸北側の帯曲輪からのぞむ、石垣と天守。

二の丸には、表御門、多聞櫓、太鼓櫓が発掘調査をもとに復元されている。

(つづく。次回は8月7日に掲載予定です)

文・写真 城郭ライター 萩原さちこ

交通・問い合わせ・参考サイト

広島城
市電「紙屋町東・西」電停から徒歩約15分
082-221-7512 (公益財団法人広島市文化財団 広島城)
公益財団法人広島市文化財団 広島城のページはこちら

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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