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薩摩街道を見下ろす見事な石垣、加藤清正が築いた佐敷城(1)

  • 文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
  • 2017年9月25日

佐敷城は国境を守る城として、加藤清正により築かれた

 熊本市内から車を走らせること約80分、南九州西回り自動車道の芦北ICを降り、「道の駅 芦北でこぽん」を目指す。ファーマーズマーケットやレストランが併設された道の駅は、休憩だけでなく買いものや食事もできる立ち寄りスポット。佐敷城(熊本県芦北町佐敷)を訪れるときのベースキャンプにぴったりだ。

 道の駅の背後にそびえる標高約88メートルの山が、佐敷城の跡だ。山上に残る石垣がこれほど肉眼で見上げられる城は珍しく、早くも胸が高まってしまう。1993(平成5)年から発掘調査が行われ、佐敷城跡城山公園として整備された。その際に木々が伐採されたため、城からの眺望がきくだけでなく城下からもよく見える。

「道の駅 芦北でこぽん」の駐車場から佐敷城山頂の石垣が見える

 山頂近くまで、車で上れることがありがたい。駐車場に車をとめて3分も歩けば累々と築かれた石垣に出合える。本来の登城道ではなくなっているのは少し残念だが、整備されていて歩きやすい。

佐敷城跡城山公園の駐車場。トイレ完備、案内版も設置されている

整備された登城道。3分も歩けば石垣が見えてくる

 登城道を登り切ったところで出迎えてくれるのが、本丸西側の虎口(出入り口)だ。まず、この存在感のある石垣に圧倒される。しかし驚くのは、この虎口が搦手(裏手)の門であること。大手(正面)はどれほど豪壮なのか、期待が高まる。

本丸西側の虎口。本丸に通じる城門があったとみられる

虎口は枡形虎口になっている

 熊本県で石垣の城といえば、思い浮かぶのは全国屈指の名城である熊本城だ。佐敷城は、その熊本城を築城した加藤清正によって築かれた。元々がどんな城だったかはわからないが、肥後に入国した清正により現在の姿へと大改造されたとみられている。

 佐敷は、薩摩街道と人吉街道が分岐する要衝だ。後に加藤氏に代わり細川氏の時代になっても佐敷御番所が置かれ、国境警備や外国船監視などの任務を果たしている。清正は肥後の国境を防備する拠点とすべく、この城を築いたようだ。島津氏、相良氏、小西氏への備えとして重要視され、城代には家老の加藤重次が任じられた。

城は佐敷川河口の南側にある。山頂からは佐敷港や人吉方面へ続く山々も見渡せる

 佐敷城と呼ばれるのは、南北朝時代にこの地に本拠を置いていた佐敷氏に由来する。要衝ゆえに地方豪族による争いが繰り返された末、1581(天正9)年に勢力を拡大した島津氏が掌握。島津氏は国境の佐敷を攻略したことで肥後進出の突破口を開いたが、1587(天正15)年に豊臣秀吉の九州征伐を受けて撤退した。

 秀吉政権下の佐々成政の統治は短期間で終息し、肥後には清正と小西行長が入国。佐敷は、肥後北部の半国を19万石で拝領した清正の飛び領地となった。ちなみに佐敷氏が本拠としていた佐敷城は、現在の佐敷城跡から東に位置する「東の城」のこととみられている。

 飛び領地であるがゆえ、1600(慶長5)年の関ケ原合戦では籠城(ろうじょう)戦も経験した。東軍についた清正に対し、小西行長と島津氏は西軍についたため、佐敷城は島津軍に攻められ完全に孤立したのだ。加藤重次は島津軍が撤退するまでの30日間をなんとか耐え抜いたという。

発掘調査に基づき、かつての石垣が再現されている

(つづく。次回は10月2日に掲載予定です)

交通・問い合わせ・参考サイト

佐敷城
肥薩おれんじ鉄道「佐敷」駅から徒歩約20分

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PROFILE

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)城郭ライター、編集者

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。
http://46meg.com/

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