にっぽんの逸品を訪ねて

金山のオーナーが残した登録有形文化財の宿 天城湯ヶ島温泉「落合楼村上」

  • 文・写真 中元千恵子
  • 2018年2月27日

歴代の当主が暮らした住居棟はモダンで居心地の良い空間

 全国で温泉宿が最も多いのは静岡県だという(*1)。特に伊豆半島は2300もの源泉があり(*2)、多くの温泉宿がひしめく一大温泉郷だ。

 有名旅館も多いこの地にあって、“伊豆のランドマーク”とも称される宿がある。湯ヶ島温泉の「落合楼(おちあいろう)村上」だ。

 7棟が国の登録有形文化財という風格ある建物、そして数々の要人や文人墨客をもてなしてきた歴史が、伊豆の中でもひと際輝く存在感を放っている。

 開業時の宿名は「眠雲(みんうん)楼」、その後「眠雲閣落合楼」になり、平成14年(2002)に創業家から現オーナーの村上昇男さんが経営を引き継いで「落合楼村上」の名になった。

 村上さんは「引き継いだ当時、見ず知らずの人たちからも『落合楼を頼んだぞ』と声をかけられ、責任の重さを感じたのを覚えています」と話す。

 伊豆の人たちにとっても特別な思いのある「落合楼村上」はどんな宿なのだろう。

伊豆の迎賓館ともいえるそうそうたる来客

 創業は明治7年(1874)。伊豆の金山のオーナーとして財を成した実業家一族が経営していた。財界の要人や関係者をもてなす迎賓館の役割も担い、名宿の誉れ高く、島崎藤村や与謝野晶子、北原白秋、若山牧水、林芙美子なども訪れている。

 宿は、本谷(ほんたに)川と猫越(ねっこ)川が合流して狩野(かの)川となる河畔に立つ。二つの川が“落ち合う”場所に立つから「落合楼」としてはどうかと進言したのは明治天皇の侍従を務めた山岡鉄舟だった。

老舗ならではの風格をたたえる端正なたたずまいの玄関

 天城山の緑に囲まれた3500坪の敷地に、客室はわずか14室。

 入母屋造りの玄関前に立つと、正統な日本建築のすがすがしい気品に、思わずすっと背筋が伸びる。装飾といえば欄間の彫刻と紫ののれんだけなのだが、その潔さが返って風格を際立たせる。この玄関棟も、国の登録有形文化財に指定されている。

 ビャクダンの香りに迎えられて足を踏み入れると、館内は騒々しさとは無縁の別世界だ。オレンジ色の明かりに照らされてつややかに光る柱、組子細工を施した木枠の窓、能面などの格調高い装飾品。何げなく目に映る風景のすべてが心地よく、心が潤ってゆく。

 着物姿のおかみさんにいざなわれて廊下を進めば、文豪たちがくつろいだ時代へと時をさかのぼっていくようだ。

廊下の明かりに照らされた組子細工。何気ない風景にもふと目を引かれる

 暖炉やアンティーク調の家具が置かれたラウンジで、ご主人に建物の歴史をうかがった。

 宿の木造部分の9割は国の登録有形文化財であり、それらは昭和8年(1933)から12年にかけて建造されたものだという。

 「創業家は昭和7年に金山の権利を売却し、その資産を投じたと思われます。昭和3年の一戸建ての建築費用が900円という時代に25万円、現在の50~100億円をかける大工事でした」と話す。

 当時は昭和恐慌後の不景気な時代で、地元の人たちに仕事を創出する意味もあったそうだ。職人たちは恩義を感じながら丹精込めて造ったことだろう。

 落合楼村上では、毎朝10時から7棟の登録有形文化財をめぐる館内ツアーが実施される(宿泊者は無料。宿泊者以外はワンドリンク付き1080円)。

 館内の探索は翌朝のツアーを楽しみに待つことにして、夕食会場へと向かった。

客室も国の登録有形文化財。風情はそのままに、廊下を床暖房にするなど快適性も兼ね備える

器に季節が舞い降りる 目にも美しい料理の数々

 夕食は盛り付けもみごとな四季の会席膳。

 この日の前菜は、ナマコぽん酢や小鯛手まり寿司、菜花磯辺揚など11種類が四角い器に盛られ、まるで宝石箱のよう。

 お造りは、キンメダイ、ほうぼう、マダイの三種盛りに、地元天城の本わさびが丸ごと添えられていた。今ではなかなか手に入らないというサメ皮のわさび専用のおろし板を使い、すりたてを付けていただく。フレッシュなワサビが白身魚の上品な甘みを引き立てる。

お造りには天城の本わさびを添えて

 その後も、箱根西麓(せいろく)三島野菜を使ったおわん、富士山のふもとで育てた「岡村牛」のローストビーフが入った煮物など、地元の食材を取り入れた料理が一品一品運ばれてくる。給仕をしてくれる着物姿の仲居さんたちの所作の美しさも、格調高い日本旅館ならではだろう。

 静岡の蔵元が造る「開運」や「正雪」などの日本酒、ワイン、焼酎など好みのお酒と合わせれば至福のひと時だ。

 シメは「わさびごはん」。土鍋で炊いた温かいご飯の上に自家製ちりめんじゃことすった本わさびをたっぷりのせる。爽やかなワサビの辛さがアクセントになって、どんなにおなかいっぱいでもするりと食べられてしまう。

ワサビの茎を使ったおつまみも。季節感のある盛り付けで食膳が華やぐ

 朝食も目でも舌でも楽しめた。野菜をサイコロ状にカットしたカラフルなサラダには、ニンジンとトウモロコシを使った自家製ドレッシングを用意。メインの魚はアジの開きかもう一種類から選べる。感動的なのは、アジでだしをとったみそ汁だ。だしのうまみを味わうためにほとんど具は入っていない。添えられた魚粉を加えると少しずつ風味が変わり、和食の奥深さが感じられる一品だ。

狩野川のせせらぎが響く露天風呂

 大浴場2カ所は、時間で男女が入れ替わる。

開放感あふれる「天狗の湯」

 「洞窟風呂」は、源泉の湯滝が豪快に流れ落ちる。共同源泉と自家源泉を合わせた、湯量豊富なかけ流しの温泉だ。

 湯滝の先は、そのまま狩野川のほとりに広がる露天風呂「天狗の湯」へと続く。木立に覆われ、川音が響く野趣あふれる岩風呂だ。天城のてんぐがこっそり湯あみに訪れたという伝説があるそうだが、さもありなんと思わせる。

 もう一方の「モダンタイル風呂」は、モザイク画やタイルを使った昭和モダンの趣。こちらも川沿いの露天風呂が付いている。

 このほか、10人は入れる広さの予約制の貸し切り風呂もあって、無料で利用できる。

貸し切り露天風呂は贅沢な広さ

後世に残したい職人技が息づく名建築

 翌朝は、お待ちかねの館内見学ツアー。

 「玄関棟」や客室がある「本館」「眠雲亭」など7棟をめぐった。

 X状の階段が印象的な「配膳室階段棟」は、配膳係と宿泊客が鉢合わせしないように工夫された造り。鶉目杢(うずらもく)とよばれるウズラの羽のような天井の模様も美しい。

 「紫檀(したん)宴会場」は木造2階建ての大建築で、2階の宴会場は108畳ある。

 1階から2階まで続く10m以上あるシタンの柱は、当時、1本で家1軒分くらいの価格ではなかったといわれる貴重な品。

 床の間の床板はケヤキの一枚板で、ゆがみを削って整えては寝かせ、またゆがみが出たら削っては寝かせるという作業を30年以上繰り返して仕上げたもの。堅いケヤキの板を削るため、大工は同じカンナで2度は削らず、1回ごとにカンナの刃を研がなければならないため、大工1人の後ろに刃の研ぎ師が2人いて刃を整え、削り込んだという。

108畳の広さにも負けない床の間の堂々たる造りが印象的だ

 「応接棟」は、ベンガラ塗の赤色の鉄瓦をのせた洋館。破風(屋根を構成する部位)の下と壁に施したしっくいのレリーフがモダンだ。

 「住居棟及び廊下」は、名前の通り、歴代の経営者が生活していた場所。随所に凝った意匠が見られ、施主の好みも感じられる。

 印象的なのはクモの巣をかたどった欄間だ。クモの巣のように、幸せをキャッチするという意味があったようだ。

住居棟の装飾には趣向が凝らされている。右下は宴会場横の廊下

 シタンやコクタンの銘木はもちろん、窓ガラスなども、今では禁輸または入手困難なものが多いという。

 昭和初期の建築の粋を集めた美しい建物と、それにふさわしい洗練されたサービス。一晩過ごした幸せをかみしめ、宿を後にした。

*1 「平成27年度温泉利用状況」(環境省自然環境局)より
*2 「温泉に関する統計」(平成29年2月1日現在/静岡県健康福祉部衛生課)より

【問い合わせ】
落合楼村上
http://www.ochiairo.co.jp/

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*料理の内容は取材日のものです。季節や仕入れ状況で変わりますのでご了承ください。

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PROFILE

中元千恵子(なかもと・ちえこ)フリーライター

中元千恵子

旅とインタビューを主とするフリーライター。埼玉県秩父市生まれ。上智大卒。伝統工芸や伝統の食、町並みなど、風土が生んだ文化の取材を得意とする。また、著名人のインタビューも多数。『ニッポンの手仕事』『たてもの風土記』『伝える心息づく町』(共同通信社で連載)、『バリアフリーの宿』(旅行読売・現在連載中)。伝統食の現地取材も多い。
全国各地のアンテナショップを紹介するサイト 風土47でも連載中

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