世界へ旅立つことが難しい今だからこそ、募る旅への思い。みなさんの思い出の旅をシェアしませんか――。そんな呼びかけにこたえてくれた、読者の投稿を紹介します。

出会いがくれたチェンマイ再訪
(オーストラリア 会社員 Sayumi Branniganさん 50代)

あの街はいま?
(大阪府 会社員 よしたかさん 40代)

世界三大瀑布制覇を夢見て
(大阪府 主婦・主夫(パート含む) 断崖絶壁好きさん 60代)

私を呼んでいる
(カナダ 会社員 ジョシュ・カゼーノさん 50代)
タイの洞窟寺院の祈り
出会いがくれたチェンマイ再訪
(オーストラリア 会社員 Sayumi Branniganさん 50代)
旅の出会いは色々な形でやって来ます。まだ海外に気楽に行けたころ、世界一周のブログを読むのが楽しみでした。私も20代半ばのころに、会社を辞めて世界一周の旅に出たことがありました。そのころはまだインターネットもない時代。ドミトリータイプの宿に泊まり、節約して旅していましたが、予算は20年経った現在の旅行者より多いぐらい。
その後、再就職、海外移住、結婚、子育てを経験する中で、旅の形も変わり、ふと気が付いたらまた振り出しに戻って、また気軽なバックパッカーの旅行に(と言っても、もうバックパックではなく小さめのコロコロスーツケース利用です)。
2019年の秋、高校時代の友人とチェンマイで待ち合わせ、ランタン上げで有名なロイクラトン祭りに参加してきました。友人は、弾丸ツーリスト。3日の滞在で東京に戻り、その後、私はチェンマイ在住の知人にチェンマイを案内していただける幸運に恵まれたのです。その方とは、世界一周のブログの中の記事がきっかけで、その当時経営されていたゲストハウスに泊まることになったのが縁でした。それはもう6年前。私も家族全員で訪れたチェンマイ。そこから路線バスで5時間もかけてユラユラ訪ねて行った山の中の村。その後、知人はチェンマイに住むことになり、私は一人旅。連絡を取ったら気持ちよく案内を買って出てくださって、連れて行ってくれたのが、洞窟寺院。信心深いチェンマイの女性が祈る姿が美しく、思わず撮ってしまった一コマです。

旅は、五感で味わえます。チェンマイのカレー麺“カオソイ”に舌鼓を打ち、いきなり始まるスコールにお寺の軒下で雨宿り。色彩の爆発の様な市場のランの花。お坊さんの読経の声。お香の香り。
今は、また自由に旅ができる日が来ることを祈ることしかできないけれど。いつかきっと来ると信じて。
短期留学先の中国で救急車同乗ハプニング、
あの街はいま?
(大阪府 会社員 よしたかさん 40代)
約30年前になりますが、中国・山西省の大同というところに行きました。北京に短期留学に参加し、学校主催の旅行でした。当時は8時間の寝台列車で、暖房は石炭、電気は車軸での発電ですので、止まると急に暗くなりました。フランス人の方も一緒でしたが、その方が心臓に問題があるらしく、初めて救急車に乗りましたが、ただのバンで何の設備もなく驚きました。病院も中国らしく「西洋医学」と「漢方医学」の入り口が。レントゲン室のドアも木製でした。どうしてもホテルに戻りたいというので戻りましたが、ホテルのエレベーターには担架が入りきらず、かなり体重のある女性を6人がかりで階段で運んだことを覚えています。そんな街にも今や高速鉄道が通り、当時とは趣が変わった街になっているのでしょうね。落ち着けば、一度伺ってみたいものです。
海外旅行を堪能したい60代
世界三大瀑布制覇を夢見て
(大阪府 主婦・主夫(パート含む) 断崖絶壁好きさん 60代)
断崖絶壁フェチの私の旅は、自分の目で見ることが第一目的です。1990年真冬のナイアガラの滝を訪れた際、凍る水しぶきを浴びながら、三大瀑布(ばくふ)を制覇しようと思いました。なかなか機会はありませんでしたが義母のケアマネジャーさんの「今、出来ることをして下さい」という言葉に後押しされて2014年夏にイグアスの滝を訪れ、ボートとヘリコプターで滝を堪能できました。

娘の里帰り出産、義母の逝去、私の退職の後、娘の第二子出産前の2019年春にビクトリアの滝を訪れました。ヘリコプターから見たビクトリアの滝は地球の裂け目のようでした。ビクトリアでは幻想的な満月に光る虹も見ました。断崖絶壁の喜望峰ではインド洋と大西洋の波がぶつかる白波も見ることができました。2020年2月にはイースター島に出かける予定でしたが、旅行社の手違いで出発は3月に変更、コロナパンデミックの為に出発5日前にチリ入国が不可能となりました。代替案として9月のイースター島とガラパゴスの旅を手配依頼しましたがコロナ感染拡大で不可能となりました。
かつて知人から60歳代は海外旅行を堪能するように勧められました。確かに20歳代なら耐えられた時差も年齢と共につらくなってきています。夫は8時間以上の航空機移動を望まず、夫と一緒の海外は天候不良になるというジンクスがあり、季節外れの台風で帰国便運航が危ぶまれたこともありました。私一人なら全行程はほぼ晴れ、最悪でも観光時には晴れます。前日は濃霧でキャンセルとなった航空機も私が搭乗する時間には運航したこともあります。遠方はのんきに「お一人様」でのツアー参加を楽しんでいます。今は自粛に耐えて一日も早くコロナ感染が終息して以前のように多くの人が心配なく旅を楽しめることを望んでいます。
リスボンのイワシの塩焼きが、
私を呼んでいる
(カナダ 会社員 ジョシュ・カゼーノさん 50代)
リスボンに着いたら、そこはイワシの街でびっくり。レストランのメニューは言うに及ばず、土産物屋はイワシグッズで埋め尽くされ、街中いたるところにイワシのモチーフ。通りかかった大きなビルの一階では、世界中の人から寄せられたイワシのデザインの展示会をやっていた。
チアド駅の近くに、大きな炭焼きグリルが入り口脇にデンと陣取っているレストランがあって、強力換気扇が煙を吸い上げている。においはしないが、イワシやアジ、タコやらイカやらエビやら、見るからに新鮮な海の幸を片っ端から炭火で香ばしく焼いている様子が通りからもよく見える。
私といえば、別にイワシのためにポルトガルを目指したわけでは、全然なかったのだけれど。

パリパリに香ばしい皮、ホカホカで肉厚の背身の弾力を感じながらさらにかみしめると頭と中骨の軽やかな歯ごたえ、そしてワタ、そう腹ワタのジューシーな苦旨のソースがじゅわっとすべてをまとめ上げる。白ワインをグビグビやりながら、こいつが一皿に5匹!「ね、人生の幸せはこんなとこにもあるんだよ」というポルトガル人の、ファドの調べにも似たささやきが聞こえる。
その店ではイワシは大きさにより一皿に4匹から5匹、私はこれを3回食べて、ほかのレストランでも2回食べた。合わせておよそ20匹あまりのイワシの塩焼きを、その2週間のポルトガル滞在で食べたのだけれど、注意事項をひとつ。イワシのおいしさはじわじわ来るために、一匹目を一口頰張って、「わあ、おいしい」とはならない。私はならなかった。3皿目、つまり11匹目とか12匹目のあたりでこう、ガブリとやりながら押し寄せるうまみに身を任せているその瞬間にふと「ああ、もう自分はこれなしでは生きられない」と気づくことになる。これが再び私をこの地に引き寄せてしまうだろうと。
リスボンでは毎年初夏に盛大なイワシ祭りがあるそうだ。ぜひとも参加したい。
カメルーンの激辛フィッシュカレーと、
悪路の国境越え
(神奈川県 hispicさん 70代)
トラックでアフリカ大陸をほぼ一周するツアーで立ち寄った、カメルーン・マムフェの街で、たまたま入ったお店で旅仲間とランチをいただきました。
ひさしぶりにテーブルに座っていただく食事。激辛フィッシュカレーに冷たいビール。皆あっという間に平らげてしまいました。ふつうの観光旅行とは違った、貴重な体験を得ることができました。

ナイジェリアからカメルーンへの国境越えの道路は、マフラーは外れ、エアタンクは転げ落ちる、すさまじい地獄の悪路でした。

ふるさと四国とつながる
イースター島再訪を夢見て
(米国 自営・自由業 たけだ りんせいさん 80代)
傘寿の年(2019)の終わりに、イースター島として知られているラパヌイ島を探索して以来、死ぬまでにもう一度行ってみたく、このコロナ禍中に夢を見ている今日このごろである。一体何が引き付けるのだろうか?巨大なモアイ石像に始まり、ラパヌイ人の謎が数え切れないくらいこの島にある。
チリ国に属する南東太平洋の離島は、地球で最も隔たった所の一つと言われているが、ラパヌイ人の先祖が日本人の先祖と近いことを知り、強く親しみを持った。考古学・文化人類学・言語学・発生遺伝学の研究によって、彼らは南太平洋のポリネシア人と証明されている。DNAリポートによると、彼らの先祖は台湾の離れ小島に住む部族と一致するとのこと。目に見える共通点は日本人も好きな里芋である。1722年のイースター・日曜日に、オランダ探検隊が上陸して以来、イースター島と呼ばれているが、ラパヌイ人はチリ政府に島の名前の変更嘆願書を何年も前に提出している。
私の故郷の島・四国とラパヌイ人との間に関係があることを知ってますます親しみを感じる。1988年にイースター島の前知事が日本のテレビ番組で、呼び掛けた。「モアイ像が自分の足で立ち上がるのを見るのが夢です。もし起重機が手元にあったならば」
高松市のタダノ(株)はこれを聞いて起重機と操作する従業員を送り込んだ。日本の考古学者と日本政府の財政支援を受けて、3年後に一番大きくて最も重要な儀式の建築物である15体の堂々としたモアイ石像の立つ祭祀(さいし)台を再建。これを聞いてユネスコが財政支援を提供してきた。1995年にこの島を世界遺産に登録し、ラパヌイ国立公園として保護されている。
平均40トンの石像・モアイを石切り場から海岸の祭祀台までいかにして運んだのかは、いまだに大きな謎になっている。ラパヌイ人の土地のレストランで私の郷土料理”タタキ”が出てきて再度驚いた。老体を駆使して再訪問の夢を見る。
コロナ猛威のロンドンから、
壁の向こうのパレスチナを思う
(英国 会社員 Aya Aisuさん 40代)
「ロックダウンが続いているみたいだけど、大丈夫かい? 外の世界に触れられないつらさ、よく分かるよ」
私が暮らしているイギリスで新型コロナウイルス感染が拡大し都市閉鎖が続いている。そんな中、これは昨年パレスチナ西岸を旅している際に出会った人から送られてきたメッセージだ。外界から遮断されたような閉塞感を感じ、またいつか自由に世界を旅できることを願う日々の中、そんな思いをはせることができること自体、どれだけ幸運なことかを改めて気付かされる。
パレスチナ自治区ヨルダン川西岸は高さ8m、全長700kmに及ぶ大きなコンクリートの壁に囲まれている。イスラエル政府がテロ対策という名目で建設した壁だ。実際そこに立つと、果てしなく続くその壁の大きさに圧倒される。その中には約250万人のパレスチナ人が暮らしている。分断壁により物流や人々の行き来が制限され、厳しい状況が続く現地。しかしそこは人々の活気と笑顔があり、見知らぬ者に対する優しさにあふれていた。

乾いた空気を肌に感じながら、美しいオリーブの樹に囲まれた西岸の村や街を一人でひたすら歩き続けた数日。旅行中にはいくつもの出会いがあり、数え切れないほど、見知らぬ人から温かい親切を受けた。濃厚なアラブコーヒーをごちそうしてくれ、パレスチナでの生活やこれからの希望や夢を語らい共有してくれた見知らぬ人々。ある時は「遠いところから来てくれた旅行者だから、代金はいらないよ」と代金を受け取らずに昼食をごちそうしてくれたお店のご主人。道に迷った際は、自分のお店を閉めてわざわざ私を行き先まで送り届けてくれた店主。
今は遠く離れたロンドンから、壁の向こうに広がる美しい大地、そしてそこで出会った温かな人々を思いをはせている。そして、いつの日か壁が取り壊され、彼らが外の世界を見ることができるように祈っている。
いつの日か行ってみたい、
イタリア・ベネチア
(東京都 自営業 薮内晴美さん 40代)
海外旅行の経験は、学生時代に友人と出かけたハワイだけです。自営業なのでなかなか時間がとれなかったからですが、いつかは行ってみたいと思っているのが、水の都と言われているイタリアのベネチアです。なぜベネチアかというと、私は長年、東京ディズニーリゾートのファンだから、というところに結びつきます。
2001年にオープンした東京ディズニーシーを初めて訪れた時、素晴らしさに絶句しました。ベネチアの街並みを再現した風景、行き交うゴンドラ……まさに異国にいるような感覚です。これを体験してから、本場はどうなんだろう……雰囲気は……街並みは……行ってみたい!と思うようになったのです。
ベネチアの街並みの写真や動画を見て驚きました。まるで東京ディズニーシーではありませんか(いや、こっちが本場だ!)。 建設会社に勤めていたことがあるので、水に浸かっているように見える建物があると、基礎は大丈夫なんだろうかと心配になります。でも、居ながらにしてイタリアの港町のすばらしさを想像できることは楽しいし、うれしい。

東京ディズニーシーのアトラクション「ヴェネツィアン・ゴンドラ」は、ゲストを乗せたゴンドラが水路をゆーらゆらと、のどかに進みます。街並みを歩くゲストに、ゴンドラのゲストが「チャオ!」とみんなで呼びかけると、陸の上から同じあいさつが返ってきます。まるでベネチアにいるような、ワクワクした気持ちにさせてくれるのです。
コロナ禍で臨時休園を余儀なくされた東京ディズニーシーも再開して、先日、久しぶりに行くことができました。感染症対策が徹底していたので安心する一方で、いつもならゴンドラが橋の下を通る時にゴンドリエ(船頭)さんが歌ってくれるカンツォーネが、このご時世だからか省かれていて残念でした。
旅行も、趣味の音楽も、ウイルスという目に見えない相手に阻まれて、今まで通りにはいかなくなりました。今は我慢の時期。でも、いつの日かベネチアでゴンドラに乗ってリアルト橋やサンマルコ広場を見ながら、カンツォーネを聴きたいと、東京ディズニーシーでゴンドラに揺られながら改めて思いました。
いつか住みたい、
最果ての天国の口、ムヘーレス
(東京都 会社員 サウナボーイさん 40代)
メキシコが好きだ。特にカンクンから船で30分ほどかかるイスラ・ムヘーレスという島が好きだ。メキシコの話をすると、「ギャングや麻薬で危ない場所では?」と聞かれることがあるが、カンクンはハワイのようなリゾート地なので、基本的に安全。ただ、物価はアメリカとあまり変わらない。

イスラ・ムヘーレスは南北8キロメートルの細長く、こぢんまりとした島。一番細いところはおそらく100メートルくらいで、一方の岸から反対の岸がすぐ見えるほど細い。またメキシコ湾側の海は穏やかで、場所によっては100メートルくらい沖に出ても足が付く遠浅の場所もあり、優雅にヨットを浮かべる観光客も多い。カンクンのようにグローバルチェーンのリゾートホテルがあるわけではなく、美しい砂浜と田舎ののんびりとした雰囲気が同居しているところが良い。2014年に行った時も、そののんびりした街並みやビーチは変わってなかったので、「きっと今ものんびりした場所なのでは?」と期待してしまう。海外旅行好きの人と話をすると、よくイスラ・ムヘーレスの話が出てきて、行った人は口々にとても良かったと言うので、一度行けば気に入る人は多いと思う。
大学の卒業旅行でメキシコに行くことにしたのは、当時世界的にヒットしていたメキシコ映画の『天国の口、終りの楽園』を見て、メキシコがこんなにオシャレでクールなところなら行ってみたいと思ったから。監督はその後、『ゼロ・グラビティ』や『ローマ』でアカデミー監督賞をとり、『ローマ』ではヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞にも輝くアルフォンソ・キュアロン。主演は、その後『モーターサイクル・ダイアリーズ』『バベル』で出演し、近年では『リメンバー・ミー』で声優としても活躍するガエル・ガルシア・ベルナル。『天国の口、終りの楽園』でもヴェネツィア国際映画祭の新人俳優賞を、ディエゴ・ルナと共に獲得している。
映画はメキシコシティから“天国の口”という幻のビーチを目指して、ストーリーが展開するロードムービー。私の旅も、メキシコシティからバスを何度も乗り継ぎ、最後にイスラ・ムヘーレスにたどり着くコースだった。
イスラ・ムヘーレスはメキシコの中では一番東に位置するが、カリブ海のもっと東にキューバやハイチがあるので、最果てではない。もちろん、映画に出てくる天国の口のビーチは、イスラ・ムヘーレスのものではない。ただ、慣れない海外での長旅でへとへとになっていた私にとっては、そこは最果ての楽園、天国の口とも思えた。
私の仕事は、パソコンに向き合うことが元々多いのだが、コロナ禍によってそれがさらに増えたと感じる。部屋にこもりながら、幻とも思えるあの島にいつか住むことを妄想している。