MUSIC TALK

今年70歳。今だからこそ伝えられること 細野晴臣(後編)

  • 2017年2月14日

撮影/山田秀隆

  • 撮影/山田秀隆

  • Blu-ray / DVD「A Night in Chinatown」(2016年12月発売)

 はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、YMO、そしてソロアーティストとして――。日本の音楽シーンに常に新しい風を吹き込み、それでいて、自らが風のようにひとところには留まらない細野晴臣さん。年齢を重ねた今だからできること、伝えたいこと。そして、大切にする「ルーツ」とは?(文・中津海麻子)

    ◇

前編から続く

はっぴいえんどから、演奏家集団の「ティン・パン・アレー」へ

――はっぴいえんどが解散した1973年、初のソロアルバム『HOSONO HOUSE』をリリースされます。バンドからソロへ。やりたいことがあったのですか?

 実は、何がやりたいかはわからなかった。はっぴいえんどを解散してからはモラトリアムだったというか。そうしていたら、マネージャーから「ソロをやれ」と。で、作ったのが『HOSONO HOUSE』でした。僕自身にはソロでやるというイメージも意気込みもなかった。歌うのがそんなに得意じゃなかったしね。言われるままにやっただけ(笑)。いつもそんな感じです。そのときに集まってきたミュージシャンが、のちにキャラメル・ママになるんです。

 キャラメル・ママはインストバンドでしたが、それには理由があって。一つは単純に歌手がいなかった。僕がもしシンガーとしていけたなら、あるいはほかにシンガーがいたら普通のバンドになっていたかもしれない。

もう一つは、「スタジオ演奏家集団」をやりたかった。当時僕らが好んで聴いていたR&Bのバッキングが素晴らしく、特にアラバマ州の小さな町マッスル・ショールズの音楽集団のセンスにかなり影響され、バッキングのスタジオミュージシャンみたいな仕事をしたいと思ったんですね。

――キャラメル・ママはその後ティン・パン・アレーとして活動し、荒井由実さんのデビューアルバムのプロデュースなども手掛けました。

 ユーミンのアルバムは、知り合いのプロデューサーから曲が送られてきて、「これで何かやってくれ」と頼まれたのがきっかけでした。デモテープを聴くと、すごくブリティッシュな雰囲気だった。当時の僕にはブリティッシュな感覚がまったくなくて、それこそ「これぞマッスル・ショールズ」といったR&Bとスカが混じったような音楽が好きだったから、そういうふうに改作しちゃったんです。それが楽しくて。レコーディングしても、僕たちが一番脂がのっていた時期だったから一発でできちゃう。それもまた楽しかった。ティン・パン・アレーの時代は、ベーシストとして演奏家として、とても充実していましたね。

異国情緒漂う横浜中華街でのライブ。昨年、40年ぶりに再び

――76年には横浜中華街の同發新館でライブ「ハリー細野&ティン・パン・アレー・イン・チャイナタウン」を開催。40年目を迎えた昨年の同じ日、同じ場所で再びライブを行い、その様子を収録したDVDがリリースされました。76年のライブ、昨年のライブ、振り返っていかがですか?

 76年のころの僕は、ロックざんまいから逸脱し、トロピカルで異国的な音楽を志向するようになっていた。そんな中作ったシングル「北京ダック」と、その後のツアーのプロモーションを目的に、異国情緒漂う中華街でライブをしたのです。トロピカル時代の活動の象徴といえるライブでした。

 ティン・パン・アレーの林立夫は、40年前のあの日も一緒にステージにいました。お互い60代になったことにびっくり(笑)。40年経っても一緒にできるのはうれしいことですね。高田漣やコシミハルといったいつものミュージシャンに加え、スペシャルゲストに星野源くんが駆けつけてくれて、すごく楽しい、いいライブになりました。

 実は去年はかなり体調を崩し、中華街でのライブもその後もツアーも、文字通り「死にものぐるい」だった。でも、DVDではおそらくそんな素振りは見えないと思う。それは、音楽の力もあるし、観客の皆さんから力をもらったからに違いない、と。ライブにはそういう不思議な力がある。そのおかげか体調もずいぶん回復したので、また今年もアルバムを作ったりライブをしたりができそうです。


細野晴臣 A Night in Chinatown

「苦し紛れに口から出た」YMO構想

――78年にはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成しました。

 当時アルファレコードの社長だった村井邦彦さんが、アメリカンスタイルの音楽ビジネスが好きでね。アメリカ人っぽく依頼してきた。「プロデューサー契約しよう」と。そんなの聞いたことなかったし、おそらく日本で初めてだったんじゃないかなぁ。

 引き受けてしまったものの、何をしていいのかわからないし、初めて聞く言葉ばかりで。たとえば「advanced」。前払いという意味で、月に何万円かくれるんです。お金をもらって遊んでいるわけにもいかないから色々考えて。そうこうしていたら、ある日、会社が記者会見を開くからその場でプロデューサーとして何をやるのか発表しろ、と。苦し紛れに口から出たのが、「イエロー・マジック・オーケストラ」でした。

――苦し紛れ(笑)。コンセプトはあったのですか?

 うっすらとはね。そのころ僕は、エキゾチックサウンド、中でもハワイで活動していたアーティスト、マーティン・デニーの音楽を、何かしらアレンジしてやってみたいと思っていた。そんな中、横尾忠則さんとインドを旅する機会があり、帰国後、インドの印象やインドで感じたことをコンピューターを使って『コチンの月』というアルバムにしました。それがコンピューターとの出会いで、大きな衝撃を受けたのです。

 コンピューター音楽とエキゾチックサウンドをつなげてみたい――。なんとなくそうしたバンドの構想のようなものはあった。でも、メンバーもいないし、曲もどうやって作っていいのかわかんない。ソロで「イエロー・マジック」という曲は作っていたので、あれこれごちゃ混ぜにして記者会見の場ででっち上げちゃったんです(笑)。

 言っちゃったもんだから、マネージャーがメンバーを探し始めてくれました。すると「(高橋)幸宏さんならやるかも」と。早速声をかけたら、幸宏は当時やっていたバンドで苦労していて、ここぞとばかりに飛んできた(笑)。さらにもう一人、名前が挙がったのが、スタジオでよく一緒になっていたアレンジャーの坂本龍一くん。坂本くんがいれば完璧だ、と声をかけたら、彼はイヤイヤながら来てくれて(笑)。バンドなんかやったことないからと不安を抱えながらね。

――YMOはまず海外で人気に火がついて、その後国内外でテクノブームを起こし、社会現象になるほどの熱狂を巻き起こしました。渦中にいて何を感じていましたか?

 ブームになるなんてまったく予想してなかったんです。そもそも「メジャー」「マイナー」という考えもなかったんだけど、まあ自分たちは少数派だろうと思っていて、マイナーはマイナーなりにやっていけるという確信があった。僕らの音楽も世界に広げていけば、好き者っていうのかな(笑)、少数派には届くだろう。YMOもそんなつもりで始めたんです。

 ところがワールドツアーから帰ってきたら曲がヒットしてて、YMOの曲を小学生までもが聴き、パチンコ屋からは「ライディーン」が流れてくる。これは大変だ、と。さらにテレビの歌番組に出たことで顔が知られ、街を歩けなくなってしまった。大人たちは割と冷たい目で見てたけど、子どもがすごく反応して後をつけられたりしてね。ピコ太郎みたいな感じですよ。もしくは最近の星野源(笑)。

 とにかく多忙で、人の目にさらされ、心身ともに参ってしまった。音楽的には、早い時期にYMOで試みようとしていたことはやったという思いもありました。そして83年、「散開」したのです。

いい音楽というのは、裏の情報が豊か

――様々な音楽やサウンドを取り込んだ細野さん独自の音楽の世界は、今の若いアーティストたちにも大きな影響を与え続けています。そうした現象をどう捉えていますか?

 僕が若いころはなんにも考えてなかった。ただ、好きな音楽は深く聴いて、そのルーツを一生懸命調べました。音楽好きはみんなそんなものだろうと思ってたんだけど、最近ちょっと希薄だなと感じていて。今の音楽に、ルーツを土台にした「香り」がしない。ちょっと即席っぽいっていうのかな。

 いい音楽というのは裏の情報が豊かなんですよね。その音楽が生まれたバックボーンやルーツを、この年になるとより一層強く感じるようになる。自分のオリジナルなんてどうでもいいと思うほどに。だから古い曲をカバーするのが好きなんです。知ってもらいたいんです、こんなにいい曲があるんだよって。

 「自分がやれることは何か」「若い人に知ってほしい」と、年をとったおかげでそういうことを考えられるようなった。だから、若い人から古い音楽を聴くようになったなんて言われると、すごくうれしいですね。

――今の年齢になったからこそできるようになったこと、伝えられることがある、と?

 若かったころは何をやってもロックになっちゃって。好きな古い音楽をやってもロックになってしまう。そのことを僕はずっと悩んでいた。ロックから一歩出たい――。それがずっとテーマだった。この年になって、やっとできるようになったかもしれないですね

 最近、ライブでもブギウギをよくやるんだけど、ブギウギはロックとは言わない。ブギウギ独特のリズムなんです。それはロックだけやっているとわからない。8ビートでは解決できない。これを、ミュージシャンたちに対してどうしても伝えたい。特に一緒に演奏している人たちに。10年ぐらいやってきて、高田漣、伊賀航、伊藤大地といった若い仲間たちの成長を感じています。やりがいがあるし、楽しいですね。

――今年70歳を迎えられます。興味を持っていること、これからやりたいことは?

 興味は、世の中のすべてのことに持っています。自然の動きとか世界情勢とかね。昔の音楽をやっても、そういう世の中の動きや自分の気持ちに影響されて「今の音」になる。そう思っています。

 やりたいことは、特にはないです。このままダラダラとこんな感じでやっていければ。もうそんなに未来がないんでね(笑)。

    ◇

細野晴臣(ほその・はるおみ)

1947年東京生まれ。音楽家。1969年「エイプリル・フール」でデビュー。1970年「はっぴいえんど」結成。73年ソロ活動を開始、同時に「ティン・パン・アレー」としても活動。78年「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成、歌謡界での楽曲提供を手掛け、プロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探求、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。
2016年5月、神奈川・横浜中華街の同發新館で開催したライブイベント「細野晴臣 A Night in Chinatown」の模様をおさめたBlu-ray / DVDを同年12月にリリースした。
細野晴臣オフィシャルサイト:http://hosonoharuomi.jp/

【ライブ情報】
「細野晴臣 初夏ツアー2017」
6月25日(日)沖縄・桜坂セントラル
7月10日(月)東京・浅草公会堂
7月15日(土)大阪・ユニバース
7月17日(月・祝)京都・磔磔(女性限定)

初の沖縄でのライブ、70歳の誕生日前日の東京でのライブ(スペシャルな演出があるかも)、女性限定(男性も女装ならOK)の京都でのライブなど。全会場で子ども同伴可能、小学生料金が設定されている。詳細はこちら

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