東京の台所

<138>いつか笑顔で“東京にサヨナラ”を

  • 大平一枝
  • 2017年2月15日

〈住人プロフィール〉
 イラストレーター、主婦・38歳(女性)
 賃貸マンション・2LDK・都営三田線 板橋本町駅(板橋区)
 入居1年・築30年
 夫(41歳・会社員)との2人暮らし

    ◇

 映画サークルで知りあった彼は、メーカーの営業マンだった。お互い出しゃばるのが苦手で、恋愛にガツガツしたタイプではない。彼女38歳、彼40歳。マイペースで独身生活を送ってきたふたりは1年半前に結婚した。きっかけは転勤話だった。

 「彼の仕事は3年~数年で転勤が伴うのですが、転勤しそうだと言いだして。どうしようと思っていたら免れたんです。いずれ一緒に暮らしたいと思っていましたが、次の転勤話の時に切り出せばいいやと、私からはそのときは将来について触れませんでした」

 すると、彼が言った。
「〇〇ちゃんの仕事机、僕の部屋に入るかなあ」
「入らないんじゃない?」
「台所なら入るんじゃないかな」
「台所でなんて、仕事したくないよー」
 当時、派遣社員として働きながら、イラストの仕事をしていた彼女は、彼の狭い台所を想像して首を横に振った。そして思った。──一緒に住む話になってる? これって……。

 そこから話は早い。一緒に住むなら、籍を入れると会社から家賃補助が出るという話も後押しとなり、幻の転勤話の1カ月後、入籍をしていた。自分はもちろんだが、福島の彼女の両親もあっけにとられる早さだったらしい。

 東京に来たくて来たくて、20歳のとき、憧れて上京した。編集プロダクションで働きながら「東京は楽しいし、最高だ!」としみじみ思ったという。

「27歳の頃、イラストレーターになるために退社し、絵の学校に行って、派遣会社に勤めながらぼちぼちとイラストの仕事を始め、そのペースができた頃に彼に出会ったので。その頃はまさか自分が東京を離れるなんて思ってもいませんでした」

 今は、いつ転勤が来てもいいと思っている。それが彼と結婚するということだ。自分でも意外なほど不安や迷いはない。

「イラストは基本的に取材もないですし、地方に行ってもできます。それに、全国を転々とする生活を楽しんでいる彼を見て、いろんなところで暮らせるのって案外いいかもなって思えたんです」

 彼は土日はじっとしていない。先週は「古地図を見ながら大名屋敷跡の公園を歩くツアー」にふたりで参加した。屋敷が多かった東京ならではの趣向である。スカイツリーやサンシャイン水族館にも行った。

 転勤には必ず期限がある。それまで、「今しか見られないところをめいっぱい見ておこう、行ってみよう」が彼の口癖だ。

「私、結婚してからのほうが東京のいろんな場所に行ってるかもしれません」

 ずっといられないのなら、せめている間はその土地でできることを楽しむという彼の前向きな考え方が、彼女を変えたらしい。

「東京で暮らす日がいつか終わる」という運命を、今はやわらかに受け止めている。

「いろんな所に住んで、年をとったらどこに住みたいかふたりで決めたらいいかなって。今はそのサンプルを集めているような気持ちです」

 彼もまた、変わった。コンビニの弁当続きだったが、料理好きな彼女のおかげで数キロ太ったのだ。

 結婚は、変化を受け入れることでもある。変化を我慢や苦痛ととるか、喜びととるかは愛情次第。大好きだった東京に潔くサヨナラをする日々が来ても彼女はくじけないし、後悔もしないだろう。彼がいればどこででも生きていける。

 年齢的にやや晩婚かと思うが、上京したての若い頃だったらそう思えないかもしれず、本当に大事なものが何かわかる年齢に一緒になって良かったなあと、老婆心ながら思った。信じるものがある人は強い。彼女なら九州でも北海道でもやっていけるだろう。おなかに守りたいものが宿っているせいもあるのだろうか、よけいに強くまぶしく見えた。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

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長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『昭和ことば 辞典』『かみさま』(ポプラ社)ほか多数。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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