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私たちの社会の「暴言」を読み解くヒント。 『ミシェル・フーコー講義集成』

  • 文・松本秀昭
  • 2017年3月21日

撮影/猪俣博史

  • 『ミシェル・フーコー講義集成〈6〉社会は防衛しなければならない (コレージュ・ド・フランス講義1975-76) 』石田英敬/小野正嗣・訳 筑摩書房 4800円+税(全13巻/各巻4800~6400円+税)

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 今回紹介するのは、1960年代から1980年代に活躍したフランスの哲学者の『ミシェル・フーコー講義集成』です。これは彼のコレージュ・ド・フランスでの講義を収録したもので、全13巻の完結予定、現在計10巻が刊行されています。その中から私が取り上げようと思うのは1976年に行われた講義『社会は防衛しなければならない』です。

社会的少数者に対する
多数者の問題を読み解くために

 2016年7月、相模原で悲惨な事件が起こりました。またその事件を受けて優生思想的発言や社会的弱者に対する暴言が問題となりました。こうしたヘイトスピーチやヘイトクライムという偏向の原因は個人のみに求められるよりも、私たちの社会の中の、あまりにも自然で目につかない社会的実践の諸結果に求めるべきではないのか、という疑問をフーコーの思想は提起します。ここではとりわけ「民族(仏:nationナシオン)」概念の変容に関してご紹介します。

 この講義では「生権力」というフーコーの有名な術語がはじめて登場しました。「生権力」とは社会全体の人間の生命を生かす権力として働きます。しかし、この権力は生命を生かすのに対応し、死を減少させるということはなく、逆に選別された生命の大量廃棄とでもいえる現象、つまり優生思想とホロコーストによる大量虐殺を引き起こしました。この講義においてこの問題の探求が宣言されるのですが、それは果たされることなくフーコーは他界しました。しかしこの講義には今日でも繰り返される、社会的少数者に対する多数者の利害の論理を用いた安易な優生思想の問題を読み解くための多くのヒントがあります。

「民族」という概念の登場

 フーコーによると「民族」という概念は、中世以来の伝統的な歴史的言説と異なる言説が登場した時に現れます。伝統的な歴史的言説というものは、君主や王の支配を、それによってもたらされるとされる秩序や平和によって説明し、その主権を正当化します。これに対して、17世紀末から18世紀初頭にかけて、衰退しつつあったフランスの貴族が、王や君主の支配や権力に抵抗する別の歴史言説を語りだし、それが発達していきました。

 この貴族たちは君主側の語る自己正当化の歴史に対して歴史論争をしかけ始めたのです。そしてこの権力に対する抵抗において、貴族たちは「民族」という自意識を持つようになりました。彼らは歴史の中に、互いに異なる民族が対立しあう「戦争関係」を見いだし、その関係で歴史を分析しました。かつて誰が誰を征服し、支配したのか、そして誰がのし上がり、誰が転落したのか、といった具合に敵と味方の二項に社会全体が貫かれるようになります。このような社会の中で、共通の習慣や法、言語によって結びついた「われわれ」がひとつの民族となり、それに対するもう一方もまた別の民族ということになったのです。したがってこのときの民族は国境内での同質性を伴う「ひとつ」の民族ではなく、「諸」民族だったのです。この歴史言説が、フランス革命前後にさまざまな集団によって用いられるようになり広まりました。

「民族=国民」、さらに「純粋な、正常な人種」へ

 戦争によって社会や歴史を読み解く「諸」民族概念の場合、その民族は「ひとつの領土」や「ひとつの法」「ひとつの政府」という考えとは全く無縁でした。しかし、君主のものであった主権がまさに民主化されたフランス革命を通じて、「ひとつの領土」内で、「ひとつの法」の下にあり「ひとつの政府」を持つ人々の集まり、つまり「民族=国民」あるいは「国民=市民」概念が登場したのです。近代国民国家の誕生です。

 さらに19世紀になるとまた新しい変化が生じます。民族の概念に生物学的な「人種(仏:race レイス)」概念が侵入してきたのです。すると次のような事態が生じました。唯一の同じ「人種」が上位の者と下位の者とに分かれるのです。そして国家権力は、「純粋な」あるいは「正常な」人種(=国民)を守るために、「純粋」や「正常」を脅かす存在と戦わねばならないという考えが現れました。

 こうして革命の時代を動かした戦争の言説が、中心的権力の言説に転用され、正常の標準を排除と選別によって決定するようになったのです。そしてこの権力の中心にいる人種=国民が、「その規範から逸脱する者たち、生物学的遺伝にとって危険となる者たち」に対して戦争することになります。そう「社会は防衛しなくてはならない」とは、中心的権力に抵抗する「主体」であった民族が、再度権力に従属化され、自己という全体のうちに、その発展を妨げる「敵」を発明・発見したときに現れた「優生思想」のスローガンなのです。

 20世紀の「優生思想」とは異なる条件が現代にはありますが、弱者に対する社会全体の姿勢の問題を考察するには、フーコーの議論とその権力分析の方法から学ぶべきことはあまりにも多くあります。

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PROFILE

松本秀昭(まつもと・ひであき)

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湘南蔦屋書店・哲学コンシェルジュ。大学院の倫理学分野で政治哲学を研究していました。でも好物は技術哲学やメディア哲学。その他にも表象文化論、文化人類学、環境問題、農など関心はいろいろ、雑食しています。文脈を楽しめる棚作りを目指しています。
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