東京の外国ごはん

二子玉川で望郷の味を ~Giang’s ジャンズ(ベトナム料理)

  • 文・写真 宇佐美里圭
  • 2017年8月8日

 二子玉川駅から徒歩3分ほど。玉川高島屋のすぐ裏通りのビルに、この8月、開店20周年を迎えたベトナム料理屋「Giang’s(ジャンズ)」がある。

 さまざまな調味料が並ぶ厨房(ちゅうぼう)で、テキパキと腕を振るうジャンさん(69)がさっとボウルに入った豚肉やエビを見せる。「こうやってすべて一度湯に通し、あく抜きをしてから料理するの。これで味がかなり変わるのよ」。

 まず1品目は、20年来の常連も必ずオーダーするという、ナスのサラダ、「ゴイカティム(Goi Ca Tim)」(1400円)。皮をむいたナスに、トマト、キュウリ、鶏肉を混ぜ合わせて、仕上げにフライドオニオン、いりごまをたっぷりかける。「夏だから水分の多い野菜を食べた方がいいでしょ?」ジャンさんの気遣いがうれしい。

 ふっくらとしたナスに、新鮮なトマト、シャキシャキした歯ごたえのキュウリにやさしい酸味が絡み、いかにも夏バテに効きそう。食べているうちに体がポカポカ熱くなってくる。

 「これは冬でも出しているんですが、ナスは体を冷やすから冬には向かないと言われるでしょう。でもうちのは大丈夫なんです。どうしてだかわかる?」

 なんでだろう……? 数秒考えていると、ジャンさんは「ショウガが入っているからなの」と続けた。ベトナムでは漢方も勉強していたというジャンさん。体にいいように、と組み合わせを考えつくしているのだ。

 2品目は、ベトナム風お好み焼き、「バンセェオ(Banh Xeo)」(1600円)。大きなお皿に野菜たっぷり、パリパリの生地に包まれたベトナム風“お好み焼き”が運ばれてきた。これは米粉をメインに、いろいろな粉をねり合わせた生地だ。「他の店はだいたい輸入の粉を水で溶いているだけ。この味は出せませんよ」とジャンさんは胸をはる。

 中には、もやし、タマネギ、万能ネギ、エビ、豚肉などが入っていて、かなりボリュームがある。生地を一口大に切ったら、レタス、青じそに巻いて、甘酸っぱいベトナムの万能タレをつけて食べる。これ一つで3大栄養素を一気に補給できる、おいしくて体に優しい料理だ。

ボートピープルとして日本へ

 ホーチミン出身のジャンさんが来日したのは、1988年。実は、それよりも7年前に、夫と幼い子どもたち3人(当時3歳、5歳、7歳)が先に日本に上陸していたという。彼らは“ボートピープル”、つまり難民として日本にたどりついたのだった。

「夫は南北統一前まで、南ベトナム軍の調査官をしていました。なので、ベトナムが統一されてからは、いつ捕まって牢屋に入れられるか、わかりませんでした。子どもたちも、南ベトナムの元軍人の子どもというだけで差別され、大学まで行かせられないのはわかっていました。ベトナムにいても将来がないと思うと、夫と子どもだけでも脱出しないといけなかったんです」

 とはいえ、脱出は一回で成功したわけではなかった。引き裂かれるような思いで幼い子どもたちと夫を小さなボートにのせて送り出したものの、途中で警備隊に見つかり、命からがら逃げ帰ったこともあれば、捕まって子どもたちも一緒に牢屋に入れられたこともあった。船を買ってすべて準備を整えたのに、当日船が現れないこともあった。

 そうして、ようやく成功したのは、7回目の挑戦のときだった。

 ジャンさんが1人残ったのは、費用が足りなかったこともあるが、何よりも失敗したときに帰る家を確保しておくためだった。「当時は3日間家を空けると、国に没収されたんです」。

 7回目にして、何の音沙汰もない日々が続いたときはどんな思いだったろうか……。

 夫から連絡がくるまでは、成功したのか、警備隊に見つかり銃撃されたのか、はたまた難破したのか、何もわからない。しかも、仮に成功していたとしても、今度いつ会えるのかもわからない。夫と子どもたちが乗った小舟が日本船に救助され、無事に香港に着いたという知らせが届くまで、ジャンさんには気の休まる日はなかったという。

 しかし、一番大変だったのはそこからの日々だった。家族は日本に行けることになったものの、ジャンさんが日本に行くメドはまったく立っていない。次に会えるのは何十年も先かもしれなかった。

 「朝から晩まで、何もしないと夫と子どもたちのことを考えてしまい、病気になりそうでした。だから、気を紛らわすためにいろいろな勉強をすることにしたんです」

 ジャンさんは外国で生きていけるための語学力を磨こうと、まずは日本語と英語を学び始めた。さらに、「外国に行ったら、貧しい生活で洋服を買うお金はないだろうから」と、自分で服を作れるように服飾技術を身に着けた。料理を習い始めたのは、「レストランに行くお金もないだろうから、家族が家庭でおいしい物を食べられるように」という思いから。鍼灸(しんきゅう)、生け花も習った。

 習い事でスケジュールをいっぱいにしたのは、いつか会う家族のためにという思いと同時に、頭から離れない家族のことを忘れるためだったのだ。1年目は、精神的なショックと錯乱状態で「家族の顔や姿形をまったく思い出せなかった」という。

 家族の顔を思い出したのは、1年ほど経ってからだ。日本に着いた夫から、ようやく写真とともに手紙が届いた。電話は持っておらず、電報はお金がかかるから無理。二人にとって手紙が唯一の連絡手段だったが、届くまでに半年以上時間が掛かった。

「写真を見て、ああ、こんな顔だった……!って思い出したのよ」と静かに話す。

 夫は日本で工場の仕事に就き、幼い子どもたち3人を養っていた。もちろんジャンさんはすぐにビザの申請を出していたが、まったく音沙汰はなし。そうして7年もの歳月が経ち、ビザが下りたのは、ジャンさん、37歳の時だった。

たったひとつの“月餅(げっぺい)”から

 ジャンさんが日本で最初に就いた職は、工場で部品の組み立てをする仕事だった。ベトナムでは料理の免状を取り、習う側から教える側へ転身していたが、もちろんすぐに腕をいかせる仕事はない。それは最初からわかっていたことだった。それでも、しばらくするとジャンさんは、大手の製菓工場へ移ることが決まる。きっかけは、たったひとつの“月餅”だ。

「日本語学校の先生に、手作りの月餅を持っていったんです。でも、口に合うかどうかはわからなかったから、一つだけ(笑)。そうしたら、その先生は1人で食べずに小分けにして、校長先生にもあげたんです。すると、校長先生が『すごくおいしい!』と絶賛してくれて、大手製菓工場の社長を紹介してくれたんです」。

 製菓工場で働く傍ら、ジャンさんは、休みの日に宴会やパーティーでベトナム料理を振る舞う機会に恵まれた。ベトナムにいる間、時間があるときはパーティーのケータリングをしていた経験があったことが幸いした。最初のオーダーは80人のホームパーティーで、そこに来たのが、有名ピアニストやアメリカ大使の妻など、そうそうたるメンバー。このホームパーティーがきっかけで、ジャンさんのお得意様になる巡りあわせもあった。

 そうして数カ月経った頃、ジャンさんは突然工場長に呼び出される。「今月末で辞めてください」と突然の解雇宣言だった。びっくりして理由を聞くと、「ジャンさんが悪いんじゃない。ジャンさんにぴったりなところにいくんです。すぐ連絡があるから心配しないでください」と言われた。

 すると市民団体「難民を助ける会」から連絡があった。会長が製菓工場にかけあい、ジャンさんの能力をいかせるよう、料理講習会の講師というポジションを準備してくれていたのだ。レストランと洋菓子店「KIHACHI(キハチ)」のオーナーシェフ熊谷喜八氏を紹介され、以後10年間は、青山の本店と姉妹店で働くようになる。

 そうしてお店を開いたのは、生徒や友人に背中を押されてのこと。ジャンさん自身は「借金をするのは嫌」とずっと渋っていたが、ふらっと訪ねた不動産屋でたまたま今の物件に出会い、トントン拍子でオープンに至ったのだった。

 20周年を迎えて、「年をとっちゃって……疲れたらいつでも休めるように、アルバイトは雇わず夫婦二人でやっています」と穏やかに笑う。それでも、コックコートを着てシェフの帽子をかぶると、キリッと顔が引き締まる。この笑顔の裏に、そんな壮絶なことがあったなんて……想像もつかない。時代の荒波にもまれた一人の半生が、祖国から遠く離れた東京で根をおろし、今も多くの人の胃袋においしいベトナムの味を届けている。この美味が私の舌に届くまでに、一体どれだけのストーリーがあったのか。人生の不思議を思わずにはいられなかった。

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■Giang’s(ジャンズ)
〒158-0094 東京都世田谷区玉川3丁目5−7 黒川ビル 3F
電話:03-3700-2475
http://www.giangs.com/

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PROFILE

宇佐美里圭(うさみ・りか)編集者、ライター

宇佐美里圭

1979年、東京都生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒。在学中、ペルー・クスコにて旅行会社勤務、バルセロナ・ポンペウファブラ大学写真専攻修了。ワールドミュージック誌、スペイン語通訳、女性誌、『週刊朝日』編集部を経て、『アサヒカメラ』編集部。料理研究家・行正り香さんの書籍を多数手がける。ラテン音楽、山、ワインが好き。

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