東京の外国ごはん

おばあちゃんの味が原点 ~ カサ・デ・エドゥアルド(チリ料理)

  • 文・写真 宇佐美里圭
  • 2017年9月5日

 「チリ料理っていうと、みんな辛いと思うみたいだけど、全然辛くないんですよ。基本的には塩やレモンのシンプルな味付けで、使うスパイスはニンニク、オレガノ、クミンくらい。だからやさしい味わいなんです」

 東京、新中野に2014年にオープンしたチリ家庭料理レストラン「カサ・デ・エドゥアルド(Casa de Eduardo)」のオーナー、エドゥアルド・フェラーダ(Eduardo Ferrada)さん(61)はそう話す。チリの家庭では日本同様、毎日いろいろなものを食べる。だから、「チリ料理と言えばこれ」と一つ挙げるのが難しいそう。「うちで作っているのは、おばあちゃんの味を思い出して作った家庭料理です」と続ける。

 キッチンから持って来てくれたのは、熱々の“エンパナーダ”(具入りパン)と“チャンチョ・アル・オルノ”(豚のオーブン焼き)、そして“ポジョ・アル・オルノ”(鶏のオーブン焼き)。エンパナーダに入っているのは豚と牛の合いびき肉、玉ねぎ、卵、オリーブ。南米ではいろいろな国で食べるが、チリのものは玉ねぎが多く、ジューシーなのが特徴だという。さっそくかじってみると……たしかに玉ねぎと肉汁がジューシーで美味! シンプルな味わいだけに飽きずに食べられた。

 エドさん特製の豚肉と鶏肉のオーブン焼きは、オレガノ、ニンニク、塩、コショウで味付けをしたもの。遠くからでもいい香りがあたりに漂う。「見た目はあんまりよくないけど、おいしいよ」と笑いながら、豪快に切り分けてくれた。さっそく食べてみると納得。塩と焼き具合が絶妙で、つい食が進んでしまう。「調味料がシンプルだから、肉の味がよくわかるでしょ?」とエドさんは胸を張った。

 肉や魚のオーブン料理に、サラダ、パエリア、エンパナーダなどが定番だが、冬になれば、レンズ豆の煮込みやスープなどのメニューが加わる。リクエストがあれば何でも作ってくれるという。

興味が赴くままに挑戦する

 「もともと料理が好きだったんですか?」と聞くと、「遊びが好きなんだよ!」と即答。にこっと満面の笑みを浮かべた。エドさんはレストランをオープンする前も今も、メインの仕事は技術翻訳の仕事で、その傍ら日本語とスペイン語の通訳やコーディネーター、25年間続いた関東のフットサル大会「コパ・チレ」の主催やプロサッカー関連の仕事、ゴルフ大会の主催など、興味が赴くままいろいろなことに挑戦してきた。

 初来日は1983年。27歳のときだ。チリの大学ではエンジニアの勉強をしたが、卒業後は希望するような仕事がなかった。そんなとき、新聞でたまたま目にしたのが、日系企業の子会社が募集していた日本での求人広告。軽い気持ちで申し込むと、トントン拍子に試験と面接が進み合格。500人ほど応募があった中で職務経験のないエドさんが選ばれ、 2カ月後にはもう日本にいたのだった。

 「主な仕事は書類を作成したり、日本のエンジニアが書いた英語をスペイン語に翻訳したりすることでした。初めての仕事だから間違いだらけ。何度も『やり直し!』と突き返されたんですが、僕には何が間違っているのかわからなくて。ちゃんとやりたくてもどこが悪いのかわからず、うまくいかなくなってしまいました」

 徐々に仕事が減り、3カ月後に社長に呼び出された。「はい、これ帰りの切符」。突然、飛行機のチケットを手渡された。

 「うまくいかなければ、仕事を辞めさせられるのはしょうがない。でもやっぱり悔しくて。切符はいらないと断りました」

 それからは無我夢中でいろいろな仕事をやった。モデルエージェントに登録し、雑誌やドラマ、映画などに出演したこともある。そうこうしているうちに、エドさんはJICAの青年海外協力隊のインストラクターの求人を見つけた。長野県駒ヶ根市の研修施設でスペイン語を教えるという仕事だ。そこでようやく、日本に来る前に結婚していたチリ人の妻を呼び寄せることができた。

 夫婦で駒ヶ根へ引っ越すと、徐々に仕事が忙しくなった。毎日朝8時から15時までは研修所でスペイン語を教え、家に帰ってからは夜中まで技術翻訳の仕事をする毎日。どんどん寝る時間が削られ、徹夜をしてそのまま仕事へ行くことも多かった。2年ほど経つと、さすがにこのままではもたないと、 自分の会社を作り、JICAを退職。東京に戻って翻訳の仕事をメインにするようになった。

 その頃、大好きなサッカーも始めた。大会を主催し、自分がプレーするだけでなく、まわりも巻き込んで盛り上げた。サッカーの知識と言語の能力を買われ、プロ選手の契約代理人や、クラブチームに頼まれて選手をリクルートしにいくこともあった。実は、南米と日本のサッカーの架け橋になる仕事も長年してきたのだ。

きっかけは3.11

 そんなエドさんが飲食業を始めたのは、2011年3月11日の東日本大震災がきっかけだ。

 「地震があったとき、すぐにチリのテレビ局から連絡がきて、12日にテレビクルーが日本に着くから、アテンドして欲しいと頼まれたんです。ちょうど翻訳の仕事も少ない時期だったので、翌日から彼らと一緒に福島、仙台へと向かうことになりました」

 混乱の中、チリのテレビクルーと一緒に北へ向かい、福島の原子力発電所からさらに北へ。そのとき一番長く滞在したのが南三陸だった。テレビクルーは1週間ほどで帰っていったが、東北の惨状を目の当たりにしたエドさんは、いてもたってもいられなかった。そこからの行動力がすごい。

 ことあるごとにゴルフコンペを主催していたエドさんは、すぐにチャリティー・ゴルフコンペを企画。3月末にはコンペを実行し、お金を集め、そのお金で材料をそろえ、すぐに炊き出しへ向かったのだ。行き先は南三陸。最初はスペイン人の友達、ホルヘと二人で行く予定だったが、最終的には、チリ人、ペルー人、コロンビア人、メキシコ人、スペイン人などラテン系に日本人を加えた30人ほどの混合チームに。現地ではバーベキューやパエリアといった料理の炊き出しだけでなく、メキシコの民族舞踊やコロンビアのクンビアなどのダンスも披露して避難所を盛り上げた。

 しかも行ったのは、1回だけじゃない。「何度も行かないと意味がない」と思ったエドさんは、その後7回にも渡って炊き出しボランティアのツアーを続けた。南三陸を拠点に、福島、陸前高田とどんどん支援場所も広げていった。

 「ボランティアをやっていく中で、何か感じるものがあったのですか?」と聞くと、「僕はバカだからそういうのはね……(笑)。あのときは自分の本業が苦しかったから、できただけです。暇だったんですよ」と笑いながら煙にまく。

 何度も炊き出しをしているうち、エドさんは自分の料理をよろこんでもらえることにうれしさを感じるようになった。スペイン人の友達、ホルヘも同じだった。そこで二人は、「レストランをやろう」と盛り上がり、2012年、赤坂に“ホルヘ&江戸”という二人の名前を冠したレストランをオープンした。

 「朝から夕方18時までやっているサンドイッチ屋さんがあったので、そこのオーナーと交渉して、18時から朝の6時までお店を貸してもらい、軽食を出すことにしたんです。メニューはバーベキューやパエリアでした」

 しかし、ホルヘは本業の音楽の仕事が忙しくなり、3カ月ほどで撤退。そこから「Casa de Eduardo」(エドの家、の意)と名前を変え、一人で営業することになったのだ。

 2014年には新中野に移転。もともとインド料理屋だったところを自分で改装した。たった一人で切り盛りしている上、飲食のプロとして経験が豊富なわけでもない。レストランだけで食べていくのは難しいため、技術翻訳の仕事は今も続けている。お店のチラシにはこうあった。

 「来てくれる人は、みんな江戸パパのファミリーや友達です。みんなで同じテーブルに座り、一緒においしいチリ料理を食べ、チリワインやスピリッツを飲みましょう」

 その言葉通り、レストランというより、まるで海外のホストファミリーの家にきたようなフレンドリーな不思議な店だ。

 「異業種の人を一緒にさせるのが僕の“趣味”なんです。翻訳関係、サッカー関係、外国人、ゴルフ友達……日本人も外国人も友達はたくさんいます。すし屋をやっている日本人の友達と、寿司とチリ料理のイベントをすることもありますよ」

 ここに行けば、きっとエドさんを通していろんな友達ができるだろう。まるでエドさんの家のようなこの空間は、訪れる人を旅人のような気分にさせてくれる。

>>写真のつづきはこちら

■カサ・デ・エドゥアルド (Casa de Eduardo)
東京都中野区中央4-1-8 富士シャトー 1F
電話:03-3382-8232
https://www.facebook.com/edojapon1

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PROFILE

宇佐美里圭(うさみ・りか)編集者、ライター

宇佐美里圭

1979年、東京都生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒。在学中、ペルー・クスコにて旅行会社勤務、バルセロナ・ポンペウファブラ大学写真専攻修了。ワールドミュージック誌、スペイン語通訳、女性誌、『週刊朝日』編集部を経て、『アサヒカメラ』編集部。料理研究家・行正り香さんの書籍を多数手がける。ラテン音楽、山、ワインが好き。

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